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岡山フィル第56回定期演奏会 Vn:福田廉之介 シェレンベルガー指揮 [コンサート感想]

岡山フィルハーモニック管弦楽団第56回定期演奏会
グリンカ/歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
 ~ 休 憩 ~
チャイコフスキー/交響曲第5番ホ短調 
指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
ヴァイオリン独奏:福田廉之介
コンサートマスター:高畑壮平
2018年5月27日 岡山シンフォニーホール
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 前半も後半も「凄い演奏を聴いた」という充実感に満たされたコンサートだった。
 まずは、何といっても福田廉之介さんのヴァイオリンを取り上げずには居られない。去年聴いたリサイタルで「もうこれは、世界中どこへ行ってもプロとしてお金を取れる水準は充分にクリアしている」と瞠目したのだが、そこからさらに深化していた。
 その発せられる音には、選ばれし者しか得られないオーラと『華』がある。第1楽章の転調しながら上昇を繰り返す場面で、オーケストラが様々な楽器で和音で色彩を出していくならば、彼はたった一挺でまばゆいばかりの世界を、オーケストラとともに創ってしまう。
 テクニックは言うまでもない、その色彩・表現力、これが葦原の瑞穂の中つ国、吉備の国から生まれた才能だ!と快哉を叫びたい、とでもいうように地元の会場は沸騰する。新しい首席奏者(候補)たちが奏でる切ない曲想に導かれて第2楽章で見せた内省的な音楽は、10代の青年とは思えない滋味沁みわたる世界だった。
 第3楽章ではテクニック以上に、オーケストラへつけていくセンスが光っていた。岡山フィルもシェレンベルガーがタクトで示す細かいニュアンスやダイナミクスをソリストと共に表現していく。
 演奏終了後は万雷の拍手が鳴りやまない。アンコールはパガニーニのカプリス。福田さんもあのチャイコフスキーのコンチェルトの最終楽章で力を振り絞るような演奏を聴かせてくれながら、涼しい顔をしてパガニーニを弾いてしまう。
 このブログを見ていただいている方には、岡山以外の方も多くいらっしゃると思うのですが、福田廉之介という名前を憶えて損はありません。必ず世界のクラシック音楽ファンなら知らぬ者はいない名前になるでしょう。
 感想は1曲目とメインに移ります。この日の入りは9割ぐらいだろうか。3階には空席が少しあったようですが、1階~2階席は見渡す限り満席だった。岡山フィルの定期演奏会、ずっと好調な集客を維持している。
 編成は座席的にヴァイオリンが見切があるので正確ではないのですが、12型でVa以下2本補強のストコフスキー配置2管編成だったでしょうか?
 今回はオーディションで合格した首席奏者たちの試用期間としてのコンサートでもあったが、どのパートもこの上ない演奏を聴かせてくれ、ソロ演奏の多いチャイコフスキーの5番で、もうこれはほとんど首席奏者披露演奏会といってもいい、華やかな演奏になった。
 グリンカの序曲からエンジン全開。岡山フィル、本当に良く鳴っています。この岡山シンフォニーホールは3月~梅雨入り前の季節までが、最もいい音が鳴るのだ。
 シェレンベルガーさんと通訳兼司会進行役の高畑コンマスとのプレトークで、『チャイコフスキーの交響曲第5番はよく演奏される曲で、ついついルーティンで演奏してしまう曲でもあるのだが、今回は楽譜を見直して、作曲家の狙いや意図をくみ取った演奏になる。新鮮な気持ちで聴いてほしい』というような内容でした。
 たしかに、今日のような王道中の王道の曲は。それだけに実は本当に難しいのだろう。それは聴衆の立場から見てもそうだ。最近の演奏ではヤンソンス&バイオルン放送交響楽団の倉敷公演の演奏が忘れられない。それは僕にとっては生涯聴いたベストコンサートの一つになっているほどだ。聴衆は地元での生演奏だけでかなりの好演を経験しているし、それだけに期待値は上がる半面、期待を裏切られた場合の落胆も大きい。
 しかしシェレンベルガーさんの言葉には嘘偽りは無かった。第1楽章はきっちりと音符を積み上げていくような演奏。この曲の動機となるメロディーを、ドイツロマン派の交響曲のようにソナタ形式の枠を手掛かりに積み上げていく。
 特に弦のボウイングの幾何学的な統一感は見事で、書道で言えば、うったてから止め・はね・はらいまできっちりしている楷書体の墨書を見るような、あるいは発音の良いアナウンサーによるナレーションを聴いているような、「ああ、シェレンベルガーさんらしいな」と思いながら聴いていた。第1楽章のラストはスパッと切る解釈に痺れた。高畑コンマスの存在は、やはり偉大だ。
 
 しかし、単に「ドイツ的・構築的なチャイコフスキー」ではなかった。第1楽章や第4楽章での管・打を中心
に短いリズムを打ち込むトウッティでは、音尻をスパッと切ることで、ストロボが光るような切れ味を出していて、このホールで聴いたサンクトペテルブルグ・フィルの演奏の切れ味を思い出した。
 第2楽章では、感情におぼれ過ぎず、しかしメロディーは大いに歌わせるドラマティックな展開を見せ、金管が奏でる、この曲の「運命の動機」では人間が抗いがたい大いなる力を誇示するように、強烈な音を客席に打ち込んでくる。
 第3楽章も、運命から解放された踊りの中に、不気味にカーテンの陰から「運命の動機」が顔をのぞかせる
不気味な雰囲気がある。
 第4楽章の激しさはどうだ!岡山フィルがこれほど荒々しくなるオーケストラなのか?一方で、金管が裏手に
回っているときの力強くも弦楽器の癒されるようなしっとりとした音にも聴き惚れる。チャイコフスキーの一種病的な世界を描き出していた。
 最後のコーダに入った後の耳をつんざくような金管の打ち込みは、古典派から前期ロマン派で見せるバランス重視のシェレンベルガーとは全く異なるように感じる。第1楽章でドイツ的構築感を感じ取った僕は、この楽章ではロシアのオーケストラのようなパワーにひれ伏すしかなかった。
 所詮、運命には逆らえない人間が刹那の時間に心を預けて踊りに踊るような・・・一種「強制された歓喜」のような荒々しい面を見せながら、最後を迎える。私には、この日の演奏は単なる勝利の凱歌には聴こえなかった。ただ・・ただ・・凄い演奏だった。
 特筆すべきは、ソロを取った各パートの首席奏者たちの見事な演奏。冒頭のクラリネットでの陰影、ファゴッ
トの哀愁。そして第2楽章のソロホルンの柔らかさと、それに答えるオーボエは、ロメオとジュリエットのようだ。第4楽章のトランペットのファンファーレは、運命へ抗うことを諦めさせられる充分な力感が備わっていた。
 それから、コントラバス・チェロのきっちりとした力強いボウイングは、これまでの岡山フィルの音にさらに力強さを加えるものだったし、ヴィオラの分厚さが無ければ、この「躁鬱的」な交響曲の魅力は半減しただろう。
 この岡山フィルの首席奏者というポスト、ファンの私がこんなことを書くのもなんですが、決して待遇がいいわけではないと思われるのですが、それでもこれだけの人材が集まって、これほどの粉骨砕身の演奏を聴かせてくれたことに感謝。早いですが、これからどうかよろしくお願いします。岡山を好きになってください。
 次回の定期演奏会での首席奏者正式就任が本当に楽しみになりました。
※追記
 某SNSに書き込んでいるときに思ったのだけれど、僕にとってチャイコフスキーの音楽はロマンティックで情熱的なイメージでとらえていたのだが、ドイツに生まれ、長くドイツの中心で活躍してきたシェレンベルガーが見るロシアへのまなざしは、フランスのブルボン王朝を模して創られたロマノフ王朝の貴族文化という面と、凍てつくロシアの大地のバーバリアニズムとが同居する存在なのかもしれない。そして、この日の演奏の美しさと激しさはそうしたロシアの持つ両面が強いコントラストで描かれたのかもしれない、そんなことを考えました。

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