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近況 [クラシック雑感]
今月8日に父が亡くなった。8日朝に危篤の知らせを受け、臨終は8日の午前11時、関東から駆けつけた姉も間に合い家族4人での最後の時間だった。
去年の秋頃から入退院を繰り返していた。私と姉は近くにおらず、介護は母が一手に引き受ける「老老介護」の状態。私自身、まだまだ手のかかる幼児の親であり、共働きのため自分たちの生活を回していくだけでも精一杯の状態だったのもあり、充分なことがしてやれなかったことが悔やまれる。
拙ブログのテーマでもあるクラシック音楽鑑賞は父からの影響だ。父から直接勧められたことは無かったが(逆に、子供の頃はよく物を壊す&分解するという破壊魔だったので、レコードプレーヤーに触れるな!と言われていた笑)、父のコレクションを興味本位で聴き始めたのがきっかけ。
思春期の難しい時期、私の通っていた中学校は荒れに荒れており、唯一の楽しみだった部活動も脚の故障で激しい運動についてドクターストップがかかり退部、友人関係も上手くいっていなかった。今で言う不登校(当時は「登校拒否」と言っていた)になり、悶々としていた時期に、父から誘われてコンサートに通うようになる。
ロサンゼルス・フィル、チェコ・フィル、ウィーン響、ドレスデン・シュターツカペレなどなど、世界のオーケストラのサウンドに魅了され、フェスティバルホールの瀟洒な内装、父が音楽仲間と談笑するラウンジの雰囲気、コンサートの後の多幸感に包まれる感覚を味わい、「大人になればこんな素晴らしい世界が待っている。自分はなんと狭い世界のことで悩んでいるのだろう」と、自分を客観視することが出来た。
去年の秋頃から入退院を繰り返していた。私と姉は近くにおらず、介護は母が一手に引き受ける「老老介護」の状態。私自身、まだまだ手のかかる幼児の親であり、共働きのため自分たちの生活を回していくだけでも精一杯の状態だったのもあり、充分なことがしてやれなかったことが悔やまれる。
拙ブログのテーマでもあるクラシック音楽鑑賞は父からの影響だ。父から直接勧められたことは無かったが(逆に、子供の頃はよく物を壊す&分解するという破壊魔だったので、レコードプレーヤーに触れるな!と言われていた笑)、父のコレクションを興味本位で聴き始めたのがきっかけ。
思春期の難しい時期、私の通っていた中学校は荒れに荒れており、唯一の楽しみだった部活動も脚の故障で激しい運動についてドクターストップがかかり退部、友人関係も上手くいっていなかった。今で言う不登校(当時は「登校拒否」と言っていた)になり、悶々としていた時期に、父から誘われてコンサートに通うようになる。
ロサンゼルス・フィル、チェコ・フィル、ウィーン響、ドレスデン・シュターツカペレなどなど、世界のオーケストラのサウンドに魅了され、フェスティバルホールの瀟洒な内装、父が音楽仲間と談笑するラウンジの雰囲気、コンサートの後の多幸感に包まれる感覚を味わい、「大人になればこんな素晴らしい世界が待っている。自分はなんと狭い世界のことで悩んでいるのだろう」と、自分を客観視することが出来た。
それ以来、途中、ブランクはあったがコンサート会場が私にとって最も「安全な場所」になった。身近な同級生が何を考えているのか解らないのに、200年、300年前の人々の感情や気持ちが音楽を通じて感じられたのも不思議だった。コンサート後に感じる多幸感に包まれる感覚は30年以上経った今でも感じることが出来ている。
忌中はコンサートを自粛(そもそもチケットも買ってなかったが)するが、四十九日が明ければ、また行こうと思っている。それが父を偲ぶことにもなるだろうと思う。
岡山フィルハーモニック管弦楽団第81回定期演奏会 指揮:キンボー・イシイ Pf:津田裕也 [コンサート感想]
岡山フィルハーモニック管弦楽団第81回定期演奏会
~ウィーンからの涼風(かぜ)~
モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番ニ短調
〜 休 憩 〜
マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調
指揮:キンボー・イシイ
ピアノ独奏:津田裕也
コンサートマスター:藤原浜雄
2024年7月7日 岡山シンフォニーホール
~ウィーンからの涼風(かぜ)~
モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番ニ短調
〜 休 憩 〜
マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調
指揮:キンボー・イシイ
ピアノ独奏:津田裕也
コンサートマスター:藤原浜雄
2024年7月7日 岡山シンフォニーホール
・いよいよ岡山フィルでマーラー/交響曲第5番が聴けるとあって、コンサートの3日前ぐらいからそわそわしている自分が居た。岡山フィルの演奏で聴くのも楽しみだし、岡山シンフォニーホールはマーラーのシンフォニーがとても映える音響だ。しかも前半はモーツァルト/ピアノ協奏曲第20番というモーツァルトの協奏曲の中でも大曲の部類に入る曲、なかなかヘビーなプログラムに心躍らぬわけがない。
・客席は5月よりも入りが良くて、7割ぐらい入っていた。今年度は身内の事情もあって、マイシートを手放したのだが,今回は去年までのマイシートと(左右逆の位置だが)ほぼ同じ席に陣取った。昨年度までは空席が目立っていたが、今回は周囲に空席は全く無かった。聴衆の皆さん、だんだんホールの位置取りが上手くなっていて、私的に「あそこは音が悪いんだよなあ~」と思っている場所がほとんど空席(笑)。価格と音響のバランスの良い2階席・3階席前方にお客さんがぎっしり入る結果となった。
・先月の京響福山定期(オール・ショスタコ・プロ)でも同じ傾向が見られたが、耳になじみ深いキャッチーな楽曲よりも、マーラーのような「音響映えする」曲の方が、遠方からの集客もあって席が埋まる場合も多いのではないか?シンフォニーホールとリーデンローズが互いの集客データを持ち寄って分析したら面白い傾向が見えるのでは?と思う。
・配置について。モーツァルトは1stVn10→2ndVn8→Vc5→Va6、上手奥にCb4の10型。交響曲は1stVn14→2ndVn12→Vc8→Va10、上手奥にCb6で14型に拡大。フォアシュピーラーには田中アシコン。プロパー首席陣は勢ぞろいして、首席空席のホルンは上間さん(東響)、トロンボーンにお馴染み小田桐さん(都響)、トランペットのトゥッティに金井さん(広響)、「おっ!」と思ったのはチューバに大フィルの川浪さん!!大フィルのマーラー5番と言えば、96分を要した超グロテスクな演奏が未だに頭にこびり付いているのだが、そこで重要な役割を果たした奏者さんとここで再会するとは(笑)
モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番ニ短調
・今年度の岡山フィルの年間プログラムを俯瞰したとき、目につくのが「ソリスト選定の眼の鋭さ」だと思う。5月の上村文乃さん、今回の津田裕也さん、第九の糀谷栄里子さんに来年3月の竹澤恭子さん。そこに地元出身のソリストを絡めている。岡山フィルをどのように育てていくのか、そこにどんなソリストを招聘するのがベストなのか、目先の知名度や話題性に踊らされず、確固たる実力を持つソリストを招聘していることがわかる。
・そんな中で今回招聘されたのが津田裕也さん。以前、Jホールで開催されたグリミネッリとのデュオ・コンサートで、セミ・コンサートサイズのヤマハから信じられない芳醇な音を引き出していたのが鮮明に記憶に残っている。
・まず、和声の響きが綺麗。岡フィルも見事にモーツァルトの音を奏でていて、津田さんのソロとも相まって、「これぞ、モーツァルトを聴いた!」という満足感に包まれた。溜めやテンポの揺れ用いるが、作為的な感じにならない。息遣いがとても自然なのだ。
・「モーツァルトの悲しみは疾走する、涙は追いつけない」は交響曲第40番の評論で吉田秀和が語ったあまりにも有名な言葉。私はこのPコン20番のピアノパートにも「疾走する悲しみ」を見出したい。愛聴盤は内田光子・テイト指揮イギリス室内管弦楽団だが、津田さんの第1楽章のピアノも哀しい疾走感が感じられた。特に長調に転じた後にも切ないほど美しくも哀しい疾走感。
・白眉だったのは第2楽章。キンボーさんは指揮棒を握ったまま、完全に津田さんに任せる。そこから光が差してくるような格調高い美しい音。オーケストラも暖かく繊細な音で入ってくる。
・あと、オーケストラだけの場面からへのピアノに入り方が自然なこと・・・、タイミングを図って、みたいな雰囲気がまったくなく、さらっと入ってくるのが凄い。アンサンブル感覚の豊かさを感じてしまう。名だたるトップソリストたちから引っ張りだこになるのもわかる気がする。
・オーケストラも素晴らしかった。キンボーさんはモダンオケとしては速めのテンポ設定。ティンパニは硬質マレットを使って、引き締まったサウンドだが、全体の解釈はロマン色が強い。しかし、ティンパニ特別首席の近藤さん。後半のマーラーと同じ釜の筈なのに古楽器の乾いた音がするのは流石!
・アンコールでは津田さんから聴衆へのなぞかけがあった(と勝手に思っている)。メンデルスゾーンの無言歌第2集からベニスの舟唄。これは後半のマーラー5番が「ベニスに死す」で有名になったことに因んでのことだろうか?と思いながら聴いていたが、後半の演奏が始まった時に。「そうか!この冒頭は無言歌第5集の葬送行進曲へのオマージュやんか。後半のマーラーを『言葉の無い歌』として聴いてみてください」という問いかけかも?と思った。さて、私の答えは合っているだろうか?
Jホールでのコンサートでも聴かせていただいたが、シンフォニーホールの音響で聴くと格別な味わいがあるなぁ。次は津田さんのメンデルスゾーンのコンチェルトが聴いてみたい。
マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調
・聴き終わった後の余韻がいまだ残っている感じ。3日前からワクワクが止まらず、音楽断ち(音楽を一切聴かない)ネット断ち(SNSなどの情報を入れない)をして臨んだ。子供の遠足よりも気合が入っとりました(笑)当日も物凄く集中して聴いたのに、音楽の渦に飲まれてディテールが思い出せない・・・
・1902年作曲、1904年初演のこの曲は年代だけ見ると20世紀の曲だが、曲に漂う爛熟しきったロマン派の香りやマーラー自身の宗教観の揺れ動きに起因するのだろうが、デカタンス的な退廃を感じさせ、これは紛れもなく世紀末芸術に数えて良いと思う。
・舞台裏が込み合うからか、後半は休憩時間に舞台上で音出しをした流れでそのまま舞台に残るアメリカンスタイル。生演奏でも十数回、音源ならば1000回ではきかない回数を聴いてきた曲だけに、どの楽器がどの部分をさらっているのかが解る。プロの職人たちがたった1回の舞台に向けて最終チェックに入っている様子はこれだけでも見ごたえがある。
・聴き終わった後の余韻がいまだ残っている感じ。3日前からワクワクが止まらず、音楽断ち(音楽を一切聴かない)ネット断ち(SNSなどの情報を入れない)をして臨んだ。子供の遠足よりも気合が入っとりました(笑)当日も物凄く集中して聴いたのに、音楽の渦に飲まれてディテールが思い出せない・・・
・1902年作曲、1904年初演のこの曲は年代だけ見ると20世紀の曲だが、曲に漂う爛熟しきったロマン派の香りやマーラー自身の宗教観の揺れ動きに起因するのだろうが、デカタンス的な退廃を感じさせ、これは紛れもなく世紀末芸術に数えて良いと思う。
・舞台裏が込み合うからか、後半は休憩時間に舞台上で音出しをした流れでそのまま舞台に残るアメリカンスタイル。生演奏でも十数回、音源ならば1000回ではきかない回数を聴いてきた曲だけに、どの楽器がどの部分をさらっているのかが解る。プロの職人たちがたった1回の舞台に向けて最終チェックに入っている様子はこれだけでも見ごたえがある。
・冒頭のトランペット小林さんの聴き手の脳天を揺さぶるような壮絶な演奏がこのコンサートの趨勢を決した。初めの劇的な音型から一瞬メジャーに変わる部分のハイトーンの突き抜けっぷりも見事だったし、楽章後半の遠鳴の切ない音も素晴らしかった。コンサートはもちろん音楽家・作曲家が主役であるが、岡山のような地方都市で映像や録音にも残らないコンサートは、「語り継ぎ」の文化という性質も持つ。この小林さんのパフォーマンスは岡山のファンの間で長く語り継がれることと思う。
・第1楽章ではキンボーさんは中庸のテンポを取るが、マーラーがもっとも主張したいポイント、つまりは演奏者の見せ場ではテンポを落として濃厚な表現を採る。実は、キンボーさんが岡フィルを指揮した2回のコンサート(モーツァルト、ベートーヴェンなど)を聴き、その鮮やかで躍動感はあるが自分の色を強烈に出すタイプではない指揮が、「支離滅裂型」のマーラーの楽曲ではどう出るかについては一抹の不安もあったのである。
・ところが、第1楽章の指揮が進むに連れて、特に中間部のテンポが早くなる部分で、それが杞憂だったことが判る。楽曲に没入し煽り気味の指揮にオーケストラが食らいついていく様子に、マーラー指揮者としての姿を見た。そして第1楽章の最後の部分では、テンポをグッと落として弦を濃厚に響かせ、まるで地獄への蓋が空いてその中へどんどん落ちていくかのような劇的な音楽に、僕のキンボーさんへの印象がガラッと変わった。「こんな指揮をされるんだ!」と。
・この第1楽章の最後の場面でミュート付きトラペットのあとに、なぜフルートが出てくるのか不思議だった。キンボーさんに聞いてみないと解らないが、これはこの世に未練を持つ魂がこの世との繋がりが断ち切られる場面を描いたのではないか?この世に思い残すこともありありで、「俺は本当に死んだのか?そんなの嫌だ」とごねている場面で、愛する人ふんするフルートによる「さよなら」を聞き、クモの糸が切れて地獄に落ちる・・・
・第2楽章に入って音楽はより濃厚に、熱を帯びていく。「すべては過剰でなくてはならない」というのはマーラーが自身が語った言葉だそうだが、その「過剰」さが徹底された演奏になった。特に弦の濃厚で極めて粘着的な響かせ方は、(語弊を恐れずに言えば)聴き手を疲労感でぐったりさせるほどで、油絵の具の重ね塗りのように音を分厚く重ねていく。上から目線で申し訳ないが、岡フィルがこんな濃厚な音をアウトプットできる性能を備えていることに、長年のファンの自分でも新発見だった。
・表現の起伏も「過剰」的だった。第2楽章冒頭の肥大化した情念の暴発は、ショッキングな第1楽章でさえも霞むような燃焼度。しかし、緩徐部分では室内楽的に、この上なく美しく演奏される(藤原コンマスのソロ、松岡さん率いるチェロパート、最高だった!)。急ー緩ー急ー緩ー急と目まぐるしく繰り返される場面転換での躁鬱的な描き方、とりわけ弱音部分での神経質なまでの描き込みはは病的ですらある。キンボーさん、こういうマーラー観なんだ、と。
・特に第2楽章の最後に勝利を予感させる部分でのマッシヴな響きが忘れられない。キンボーさんの指揮もオケに対して「振り切れ!」と言っているように見え、じっさい岡フィルは振り切った演奏だった。ここで鳴ってるハープの柔らかくも強靭なグリッサンドはマーラー一流の演出で、どんな高性能なオーディオでも再現不可能。生演奏で岡フィルが取り上げてくれたから、最高の音響環境で聴くことが出来た。感謝感謝。
・第2楽章と第3楽章の間には長い休憩とチューニングの時間。客席から「はぁァー」といったため息が漏れ、第1〜2楽章のハイカロリーな表現に、聴き手も疲労しているのがわかる。まだ半分も終わってないんだけどね。
・第3楽章は非常に煌びやかなサウンドで幕を開ける。まあ、客演首席の上間さんの朗々と力強く響き渡るホルン、これに付きますな。上間さんだけじゃなくて、ホルンのアンサンブルが本当に聴き応えがかさあった。金管・パーカッションは華やかでありつつ、弦をスッキリと響かせ、前二楽章とは違った世界を現出。
・目頭が熱くなったのは第3楽章のこの部分。ウィーン風ワルツのリズムの跳躍の中にため息のようなヴィオラのロングトーン。あまりの美しさに泣ける。キンボーさんも横顔ながらこの部分には思い入れたっぷりに指揮されているように見える。マーラー、というよりも人間が作った音楽の中で、最も心を掴まれるものの一つ。
・中間部以降、明朗で華やかな音楽がどんどん変容していき、狂気に満ちていく。そして岡山フィルのアンサンブルもかなり危うい場面が続く。岡フィルの基本編成は10型2管編成で客演首席の助力を借りねば、こんな大曲を取り上げることも叶わないわけで、固定メンバーだけで演奏できちゃう大都市の常設三管編成オケのようにはいかない。
・ただアンサンブルの乱れ、パート間のバランスの崩れ、そんなものもキンボーさんにとっては織り込み済みだったのだろう。アンサンブルにほころびが見えた時、その乱れを収拾して整える方に方にエネルギーを使わず、音楽の流れを切ることなく、逆にエネルギーに変えていくタクト捌きを見せる。
・この楽章の途中から、もう音楽の渦に私自身も巻き込まれていて記憶も定かではないのだが、世紀末ヨーロッパの熱狂とノスタルジー、心を打つ歌と心が沸き立つ踊り・・・当時のヨーロッパ空気が詰まった演奏に心から感動した。オーケストラの醍醐味が詰まった演奏だった。
・この楽章で使われる「ムチ」は細くて硬そうな木材2本を蝶番で繋いだもの。バチっというよりは拍子木に近い音だった。
・そして第3楽章と第4楽章の間にもチューニング。ステージ上は一息つく、といった雰囲気ではなく、曲調がガラッと変わるのでホール内の空気をクールダウンさせるための「間」を取った感じ。
・第四楽章は「アダージェット」という速度指定に忠実な=バーンスタインやハイティンクの演奏でこの曲を覚えた筆者には速めに感じる=テンポ。アプローチは極めて浪漫的。ハープの音が蠱惑的とも言える美しさで、(第2楽章の感想でも書いたが)生演奏で、しかもいいホールで聴いてこそ、だよなあ。
・中間部の切ないほど美しさはロマン派の落日の燃えるような夕映えを思わせる。再現部に入ってからの弦楽器をグラマーに響かせ、畳み掛けるように音を重ね、もうこれは完全に客席を泣かせにかかってる(笑)またまた上から目線ながら、岡山フィルの弦、本当に良くなってるよね。
・第四楽章最後の音が消え入るかどうかのタイミングで、ホルンによる第5楽章を告げる号砲が爽やかに鳴らされる。この楽章は一貫して明るい曲調。金管・木管はもうノリノリである。チューバ、コントラバスは下支えではなく、音楽を駆動するパワフルなエンジンと化す。
・バランス的には弦楽器は管楽器に押され気味ではあったが、マーラーの凄いところは弦楽器にとってオイシイ場面は必ず用意しているところ。キンボーさんのタクトは益々冴えを見せ、大爆音トゥッティでも軽快に振れ幅の大きいスイングをする一方で、この楽章でもディテールの描きこみは見事で本当に美しい。
・この曲、終わりが見えた場面で、その終わりの光に向かってなだれ込む感じが、たまらんのだよなあ。躁鬱的な第1〜第3楽章に対して、聴きようによってはから元気のような音楽だが、その支離滅裂なところがマーラーであり、現代社会そのもののような気がする。何より管弦楽の出せる音のポテンシャルを限界まで拡大したオーケストレーションを、音響抜群のホールで聴く愉悦は何物にも代えがたい。終演後の地鳴りのような拍手のなか、トランペットの小林さんを讃える団員さんたち。同パートの横田さんは肩を揉んであげてるし(笑)本当に素晴らしいコンサートだった。
オーケストラ福山定期 Vol.2 京都市交響楽団 指揮:井上道義 チェロ:クニャーゼフ [コンサート感想]
オーケストラ福山定期 Vol.2 京都市交響楽団
ショスタコーヴィチ/チェロ協奏曲第1番変ホ長調★
〃 /チェロ協奏曲第2番ト長調★
〃 /交響曲 第2番ロ長調「十月革命」◆
指揮:井上道義
チェロ独奏:アレクサンドル・クニャーゼフ★
合唱:京響コーラス(合唱指揮:福島章恭)◆
コンサートマスター:会田莉凡
〃 /交響曲 第2番ロ長調「十月革命」◆
指揮:井上道義
チェロ独奏:アレクサンドル・クニャーゼフ★
合唱:京響コーラス(合唱指揮:福島章恭)◆
コンサートマスター:会田莉凡
2024年6月23日 ふくやま芸術文化ホール(リーデンローズ)大ホール
・今回は新幹線での福山入り。快速サンライナーが消滅してから、各駅停車に60分も揺られて行くのが億劫になった(サンライナーも10分速いだけだったが、停車駅が少ないのは気分的に楽だったなぁ)。新幹線だと15分。ほんまにあっという間に着く。この味を知ってしまったら、もう鈍行には戻れない?
・プレトークが催されたが、過去に道義さんのプレトークでは不愉快な出来事が何度かあったため(確信犯的爆弾発言、多いからね)、話が怪しくなったら聞かないようにするつもりだった。プログラム解説へのダメ出しはあったが心配したような爆弾は炸裂せず道義さんの育ての親の父(養祖父?)が豊松村(今の神石高原町)の出身ということが語られた。
・配置について。協奏曲は1stVn10→2ndVn8→Vc4→Va6、上手奥にCb4の12型2管編成。交響曲は1stVn14→2ndVn12→Vc8→Va10、上手奥にCb6で14型に拡大。フォアシュピーラーに泉原コンマス。
・まず、今回のプログラムの作曲年代を押さえておく。ショスタコーヴィチという作曲家は、当時の政治情勢と切っても切り離せない。チェロ協奏曲第1番の作曲は1959年、交響曲で言えば第10番と11番の間の時期の作品。スターリンが53年に死去し、フルシチョフがスターリン批判を展開したのは56年。多少の「雪解け」があったにせよ、知識人・文化人を含む70万人規模の大粛清からまだ10年も経っておらず、かなり用心して書かれたと思われる。チェロ協奏曲第2番は1966年、交響曲で言えば第13番と14番の間で、晩年の作品に分類される。若干開明的に見えたフルシチョフが64年に解任され、ブレジネフはスターリンのようなエキセントリックさは無いものの、明らかに文化芸術面でのコントロール(締め付け)を強めた時期。ショスタコーヴィチ自身もソヴィエト共産党員となり、作曲家同盟の第1書記、ソ連邦最高会議議員、レーニン勲章受章など、体制側に絡め取られている。
・それに比べて交響曲第2番の作曲は1927年。レーニンが死去し、スターリン体制に入っていたものの。当時のソ連は世界初の社会主義国家建設へのエネルギーが社会に満ち満ちていた時代で、革命後の内戦や外国からの干渉をはねのけ、混乱から脱しつつあった。文化的にはいわゆるロシア・アヴァンギャルドの花が満開に咲いていた最後の時代の作品。
・プレトークが催されたが、過去に道義さんのプレトークでは不愉快な出来事が何度かあったため(確信犯的爆弾発言、多いからね)、話が怪しくなったら聞かないようにするつもりだった。プログラム解説へのダメ出しはあったが心配したような爆弾は炸裂せず道義さんの育ての親の父(養祖父?)が豊松村(今の神石高原町)の出身ということが語られた。
・配置について。協奏曲は1stVn10→2ndVn8→Vc4→Va6、上手奥にCb4の12型2管編成。交響曲は1stVn14→2ndVn12→Vc8→Va10、上手奥にCb6で14型に拡大。フォアシュピーラーに泉原コンマス。
・まず、今回のプログラムの作曲年代を押さえておく。ショスタコーヴィチという作曲家は、当時の政治情勢と切っても切り離せない。チェロ協奏曲第1番の作曲は1959年、交響曲で言えば第10番と11番の間の時期の作品。スターリンが53年に死去し、フルシチョフがスターリン批判を展開したのは56年。多少の「雪解け」があったにせよ、知識人・文化人を含む70万人規模の大粛清からまだ10年も経っておらず、かなり用心して書かれたと思われる。チェロ協奏曲第2番は1966年、交響曲で言えば第13番と14番の間で、晩年の作品に分類される。若干開明的に見えたフルシチョフが64年に解任され、ブレジネフはスターリンのようなエキセントリックさは無いものの、明らかに文化芸術面でのコントロール(締め付け)を強めた時期。ショスタコーヴィチ自身もソヴィエト共産党員となり、作曲家同盟の第1書記、ソ連邦最高会議議員、レーニン勲章受章など、体制側に絡め取られている。
・それに比べて交響曲第2番の作曲は1927年。レーニンが死去し、スターリン体制に入っていたものの。当時のソ連は世界初の社会主義国家建設へのエネルギーが社会に満ち満ちていた時代で、革命後の内戦や外国からの干渉をはねのけ、混乱から脱しつつあった。文化的にはいわゆるロシア・アヴァンギャルドの花が満開に咲いていた最後の時代の作品。
ショスタコーヴィチ/チェロ協奏曲第1番変ホ長調
〃 /チェロ協奏曲第2番ト長調
・クニャーゼフ、すんごい演奏を聴かせて貰った……。ショスタコ独特のスタッカートで奏でられる不規則リズムの音の太いこと太いこと!2階席に居た私にも頬や額に空気の振動が伝わってくる。無限の音色を駆使し、音量の大小だけでなく、この世のものとは思えない死者の声のような繊細なハーモニクスからステージを震わせんばかりの野趣あふれる大音量まで、振れ幅が大きい。同じようなフレーズが執拗に出てくる第一番でも、一つとして同じに聴こえない。
・特に第1番の第3楽章「カデンツァ」、第2番の第2楽章後半が圧巻。道義さんの踊りもキレキレである。表現は濃厚だが、外連味よりも真摯さが前面に出る。作為的なものを全く感じさせないため、背筋が固まるような説得力を帯びている。
・もはやこれは言葉の無い音楽表現というより語りであり歌でもある。根底にはショスタコーヴィチへの深い共感があり、そのショスタコの音楽を自らの精神にに内在化する際の一種の免疫反応にのたうち回るような激しさがある。ロストロポーヴィチの生演奏を聴くことは叶わなかった自分だが、こういう濃厚な音楽はロストロポーヴィチの再来だと感じる。
・それに加えて、決してソリストの独り舞台にならない、ショスタコのコンチェルトが内包する「管弦楽のための協奏曲」としての一面を前面に押し出し、京響の、特に管楽器奏者と見事な掛け合いを見せてくれた。なかでも第1番第2楽章での超ピアニッシモでのホルン:柿本さんの神業というほかは無いパフォーマンスに導かれるクニャーゼフのハーモニクスでの「語り」の場面、あるいは第1番の第4楽章でのクニャーゼフと管打セクションとの「殺陣」にはぐうの音も出ない。第2番での1番ホルンが柿本さんから次席の水無瀬さんに交代しても壮絶に巧い!迫力あるモチーフの雄叫び。木管4パートも首席を温存して次席奏者のみでこの精緻さ・緊張感の持続。京響、層が厚すぎる。
・第2番の第3楽章の諦念・空虚さは空恐ろしいものがある。時折明るいモチーフが出てくるが、最後は(これは交響曲第15番にも感じられるが)仏教でいうところの彼岸の先の世界=死後の世界に迷い込んだような世界が描かれている。クニャーゼフ自身、現在は政治的に微妙な立場に追い込まれていて、自分の楽器を国外に持ち出せず、この日も代わりの楽器で演奏されたそうだが、そんな事情もあってか、空虚さ・どうしようもない無力さに胸を掻きむしるような音楽だった。緊張感を孕みつつもクニャーゼフの描き出す諦念の世界に付けた京響も流石。
・第1番、第2番の演奏が強い関連性を持っていたので、感想はひとまとめにしたが、演奏自体は間に休憩を入れて演奏された(わずか20分の休憩で演奏したクニャーゼフのスタミナも凄かったが)
ショスタコーヴィチ/交響曲 第2番 ロ長調「十月革命」
・ショスタコーヴィチには十月革命を描いた交響曲が2つある。交響曲第12番「1917年」と、今回採り上げられた交響曲第2番。交響曲第12番、いわゆる「レーニン交響曲」は構想依頼30年かかった力作だったらしく、交響曲第2番は混声合唱の歌詞を見れば一目瞭然!レーニン賛歌の交響曲だ。諸説あるみたいだが、スターリンに対しては心の底から憎み・恐怖の対象であったのに対し、レーニンに対しては悪感情が少なかったのではないか?
・ロシア研究家の亀山郁夫氏によると、「1920年代は長いロシアの歴史のなかではほとんど唯一といってもいい、プルーラリズム(多元主義)の時代」だったそう。交響曲第2番はそんな時期に書かれ、ロシア革命期以来のロシア・アヴァンギャルドの潮流の洗礼を受けた天才作曲家の才鬼がほとばしるような楽曲になっている。
・「ロシア・アヴァンギャルド」は、1910年代から、ソビエト連邦誕生時を経て1930年代初頭までの、ロシア帝国・ソビエト連邦における各芸術運動の総称である。同時代の西欧で巻き起こったキャビズムや未来派からの影響が見て取れるが、ロシア社会に充満した革命の機運と芸術家・知識人の創作意欲が複雑に絡み合い、独自発展を遂げた。今回のコンサートのロシア語言語指導を担当された髙橋健一郎さんは、まさに「ロシア・アヴァンギャルド」研究の第一人者。恐らく道義さんの人選だろうし、道義さんがこの選曲で伝えたかったことの一つでもあるのではないか。
・ショスタコーヴィチ自身は、「ロシア未来派」などと呼ばれるようになったグループには入っていないが、今回演奏された交響曲2番の第1楽章の見せ場=27声部からなるウルトラ対位法を生で聴くと、やはり「ロシア・アバンギャルド」の時代の空気を感じざるを得ない。カンディンスキーの「インプロヴィゼーション」や「コンポジション」を思わせるような眩い色彩は後年の管弦楽曲には無いもので、これを生演奏で体感できたことは、僕の音楽鑑賞人生にとってとても大きなことだった。
・確かにショスタコーヴィチの楽曲にしばしば感じられる機関銃の連射音と血の匂いを、この曲にも強く感じるが、後年の作品(例えば前半に演奏されたチェロ協奏曲2曲)に比べて、とてもポジティブなパワーを感じる。第1楽章のウルトラ対位法を抜けた後の爽快な響きや第2楽章の終結部などは後年の作品には感じない雰囲気。
・京響はこの曲から木管4種に首席陣(Cl小谷口さん、Fg中野さん、Fl上野さん、Ob高山さん)が勢揃い。その緻密なアンサンブルにいっそう磨きがかかった。このホールで海外オケを含めて色々なオケを聴いてきたが、今日の京響の演奏は間違いなくトップレベルの演奏。最近はご無沙汰気味だが、コロナ前によく足を運んだ本拠地:京都コンサートホールでの定期演奏会で聞かれた演奏の精度や緊張感がリーデンローズでの演奏にも反映されており、本拠地定期と同様の本気モードだった。
・本気モードなのはオケのみに非ず、14型の大編成のバックに陣取った合唱団も一級の演奏。地方都市でこの規模・レベルの合唱を聴くことは少ない。しかもこの曲のためだけに京都から足を運んでくださった事の贅沢さ、集客面など興行的な採算ラインの達成にはまだまだかも知れないが、これ程のクオリティのステージを福山はじめ瀬戸内地域の人が体験している、ということにおいては多大な成果を出していると言って良いと思う。
・それにしてもこの曲の合唱(時にシュプレヒコール)の歌詞のダサさよ(笑)解説によればショスタコーヴィチはこのベジメンスキーによる詩を「見た瞬間に、その劣悪さに屈弱を感じた」そうで、それでも作曲を引き受けたのは報酬の500ルーブル目当てだったそうだ。私は、このダサダサの題材から管弦楽技法を駆使した最先端の作品を作る事に、ある種の皮肉めいたやり甲斐を感じてきたのでは無いか、と感じるのだ。
・ロシア研究家の亀山郁夫氏によると、「1920年代は長いロシアの歴史のなかではほとんど唯一といってもいい、プルーラリズム(多元主義)の時代」だったそう。交響曲第2番はそんな時期に書かれ、ロシア革命期以来のロシア・アヴァンギャルドの潮流の洗礼を受けた天才作曲家の才鬼がほとばしるような楽曲になっている。
・「ロシア・アヴァンギャルド」は、1910年代から、ソビエト連邦誕生時を経て1930年代初頭までの、ロシア帝国・ソビエト連邦における各芸術運動の総称である。同時代の西欧で巻き起こったキャビズムや未来派からの影響が見て取れるが、ロシア社会に充満した革命の機運と芸術家・知識人の創作意欲が複雑に絡み合い、独自発展を遂げた。今回のコンサートのロシア語言語指導を担当された髙橋健一郎さんは、まさに「ロシア・アヴァンギャルド」研究の第一人者。恐らく道義さんの人選だろうし、道義さんがこの選曲で伝えたかったことの一つでもあるのではないか。
・ショスタコーヴィチ自身は、「ロシア未来派」などと呼ばれるようになったグループには入っていないが、今回演奏された交響曲2番の第1楽章の見せ場=27声部からなるウルトラ対位法を生で聴くと、やはり「ロシア・アバンギャルド」の時代の空気を感じざるを得ない。カンディンスキーの「インプロヴィゼーション」や「コンポジション」を思わせるような眩い色彩は後年の管弦楽曲には無いもので、これを生演奏で体感できたことは、僕の音楽鑑賞人生にとってとても大きなことだった。
・確かにショスタコーヴィチの楽曲にしばしば感じられる機関銃の連射音と血の匂いを、この曲にも強く感じるが、後年の作品(例えば前半に演奏されたチェロ協奏曲2曲)に比べて、とてもポジティブなパワーを感じる。第1楽章のウルトラ対位法を抜けた後の爽快な響きや第2楽章の終結部などは後年の作品には感じない雰囲気。
・京響はこの曲から木管4種に首席陣(Cl小谷口さん、Fg中野さん、Fl上野さん、Ob高山さん)が勢揃い。その緻密なアンサンブルにいっそう磨きがかかった。このホールで海外オケを含めて色々なオケを聴いてきたが、今日の京響の演奏は間違いなくトップレベルの演奏。最近はご無沙汰気味だが、コロナ前によく足を運んだ本拠地:京都コンサートホールでの定期演奏会で聞かれた演奏の精度や緊張感がリーデンローズでの演奏にも反映されており、本拠地定期と同様の本気モードだった。
・本気モードなのはオケのみに非ず、14型の大編成のバックに陣取った合唱団も一級の演奏。地方都市でこの規模・レベルの合唱を聴くことは少ない。しかもこの曲のためだけに京都から足を運んでくださった事の贅沢さ、集客面など興行的な採算ラインの達成にはまだまだかも知れないが、これ程のクオリティのステージを福山はじめ瀬戸内地域の人が体験している、ということにおいては多大な成果を出していると言って良いと思う。
・それにしてもこの曲の合唱(時にシュプレヒコール)の歌詞のダサさよ(笑)解説によればショスタコーヴィチはこのベジメンスキーによる詩を「見た瞬間に、その劣悪さに屈弱を感じた」そうで、それでも作曲を引き受けたのは報酬の500ルーブル目当てだったそうだ。私は、このダサダサの題材から管弦楽技法を駆使した最先端の作品を作る事に、ある種の皮肉めいたやり甲斐を感じてきたのでは無いか、と感じるのだ。
・第2楽章のサイレンは手回し式。工場労働者の勤務時間を知らせるサイレンの音だそうだが、今回使われたサイレンがダムの放流警報のサイレンと同じ音だったので物々しさが半端なかった。このサイレン、金管楽器で代用される例も多い中(ハイティンク盤、バルシャイ盤など)で、やはり実物のサイレン音で聴きたい。
・これで私が道義さんの指揮をみるのはこれが最後になったなあ、と余韻に浸っていると、それに水を差す出来事があった。実はある奏者の方がcovid19に罹患し、出演を断念、急遽代役が立てられ、その方が素晴らしいパフォーマンスを披露してくれたのだが、道義さんのブログに『なんだか今はもう流行らないコロナとか言う風邪にやられて居なくなった(奏者)』と、代役の方を讃えるだけで良いのに、ホンマにいらん事を書かはる。こんな風に書かれた奏者の方の立つ瀬が無いし(京響は彼とは長い付き合いなので「また何か言うとるわ」でスルーしているかも知れないが)、言わんでもええ事を言う、という以上に、その思考自体が私には問題外だ。
・御本人は信念あっての事かも知れないが、普通の社会人から見ると完全にアウト。この人は大人になれないガキンチョのまま、引退まで突っ走った、ということだろう。ガキンチョでも仕事の依頼が引っ切り無しだったのは、難を補って余りある才能だったということ。
・福山駅からリーデンローズまで無料シャトルバスに乗った。バス乗り場を一緒に探したご高齢の方は府中から来られたそうで、「脚が悪いからバスが無かったら来とらんかった」と。こういう声を聞くとハレノワもシャトルバスを運行すべきかなと。
・ただ、帰りのシャトルバスはかなりの積み残しが出て、ご高齢の方ほど乗れなかったという皮肉な現象も。有料化して続行便を運転するなどの対応をとった方が良いかもね。
広響プレミアムコンサートin倉敷 広上淳一 指揮 ヴァイオリン:神尾真由子 [コンサート感想]
岩代太郎/東風慈音ノ章(ローム・ミュージック・ファンデーション設立30周年委嘱作品)
メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲ホ短調
ムソルグスキー(ラヴェル編)/組曲「展覧会の絵」
指揮:広上淳一
ヴァイオリン独奏:神尾真由子
コンサートマスター:扇谷泰朋
2024年5月26日 倉敷市民会館
・新進若手音楽家へ莫大な資金援助を継続して行っているローム・ミュージック・ファンデーション(RMF)の30周年を記念したシリーズの一つとして企画されたコンサート。ロームはパワー半導体世界シェア9位を誇る。ロームの100%子会社のローム・ワコー(旧ワコー電機)が岡山県内(笠岡)にある関係で、この備中地域で開催された模様。
・5月25,26日の岡山県下はオケ・コン特異日で、25日には岡山フィル定期(岡山シンフォニーH)と角野隼斗&佐渡裕・新日本フィル(倉敷市民会館)がもろ被り。翌日26日は岡山フィル津山定期(津山文化センター)と広上淳一指揮・広響プレミアムコンサート(倉敷市民会館)がもろ被りだった。岡山フィルの両公演は少なからず影響を受けていた。普段はプロのオーケストラのコンサートなんて月に1回あるかないかの頻度なのに。もう一週間ズレてくれてれば、と思う。
・で、私は当然岡山フィル津山定期に行くのかと思いきや、広上&広響の方を選択してしまった。何せこの日のソリストは神尾真由子さん、彼女もRMFファミリーの一人だが、津山が気になりつつもこれを聞き逃す選択は無かった。
・会場の入りは6割程度。日曜日としてはやや寂しい。前日の角野隼斗&佐渡裕・新日本フィルは完売満席だったようだから、このコンサートも4公演集中の影響を受けたようだ。それにしても他の要素もあるとは言え、神尾真由子より角野隼斗の方が、今現在は集客力があるというのは・・・ちょっと驚き。
・配置は岩代太郎、展覧会の絵は1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型2管編成。協奏曲は1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va6、上手奥にCb4で12型だがチェロバスは2減。
岩代太郎/東風慈音ノ章(ローム・ミュージック・ファンデーション設立30周年委嘱作品)
ローム・ミュージック・ファンデーション設立30周年委嘱作品。プログラムには岩代さん自身による解説が書かれており、「難解かつコンテンポラリーなアプローチてはなく万人にとって親しみやすい曲調とする」との解説のとおり難解さは皆無。「義経」「葵〜徳川三代」「白線流し」で親しんだ岩代サウンドを感じつつ、重厚さや未来への希望を感じさせる名作。
メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲ホ短調
・冒頭から心を鷲掴みにされる。耳にタコができるほど聴き込んだド名曲だけに少々の演奏では驚かないが、これほどまでに自分の心を撃った事にまず自分でも驚いた。ストラディバリウスってこんな音が鳴るのか!という特別な体験が出来た。名器から万華鏡の様に表現を引き出し、ダイナミクスは極めて広く、弱音部は極限迄小さく絞る。それはホールの大きさなど関係ない、ピアニッシモはピアニッシモなのよ、と言わんばかり。強音は舞台に君臨する女王の様に濃厚で強い音で聴衆を圧倒。
・第2楽章で涙腺崩壊。これ以上のメンコンはそうそうは聴けないかも、そう思いながら一音一音を噛み締めながら聴いた、彼女が10代の頃から実演に接し、毎回「前回の体験」を凌駕していく。こんなヴァイオリニストを他に知らない。どこまで高みに登っていくのか?次の機会を楽しみにしたい。
・実は、以前は神尾さんのヴァイオリンの音そのものは自分の好みとは外れていた。シャープであまりにも切れ味鋭い音は凡人を寄せ付けないというか、温かみが薄い印象を持っていた。圧倒的なテクニックと表現力の前にはひれ伏すしかなく、力付くで最後は納得させられる。そんな感じだった。
・ところが今回の演奏はとてもまろやかで温かみがあって、すぅぅっと心の中に入ってくる感覚があった。初めて彼女の奥底の温かい人間性に触れたような感動があった。
・神尾さんはオーケストラとの協奏曲の時はアンコールを滅多にやらないと思うが、それは中途半端な事はやらないというポリシーだと理解している。その貴重な入魂のアンコールに痺れた。バッハの無伴奏パルティータ第3番のプレリュード。
ムソルグスキー(ラヴェル編)/組曲「展覧会の絵」
・コンサート・ソムリエの朝岡聡さんと、広響生演奏による楽曲解説が面白く、実演でも結構聴いている筈のこの曲への理解が深まった。ラヴェルの見事な管絃楽技法に耳を奪われがちなこの曲てはあるが、帝政ロシアの鬱屈した社会に焦点を充てた解説の端々から、造詣の深さが感じられた。朝岡さんはニュースステーションのスポーツコーナーで、久米宏さんからの意地悪なツッコミを軽くいなす(笑)軽妙なアナウンスが印象に残っているが、実はクラシックが好きだったというのは意外だった。
・プロムナードからして金井さんのトランペットが素晴らしい。広上さんは髭を蓄えられて、それが威厳というより可愛らしさに拍車をかけて、まるで七人の小人に居そう(失礼極まりない!)。「殻をつけた雛の踊り」での、コミカルな指揮(というか、踊り)に木管の皆さん、よく吹き出さないよなあ(笑)と
・広上さんのタクトは、外連味あふれる緩急自在のテンポ。古城などでは、指揮・・というより身悶えするようなボディランゲージで情感たっぷりに歌わせる。
・ビドロのソロは音の感じはユーフォニウムではなくチューバのように思ったが、フィナーレで使っていたチューバとは違うもの。
・大好きな「リモージュの市場」や「テュイルリー」での洒脱かつ柔軟な表現の一方で「バーバ・ヤーガの小屋」「キーウの大門」の大迫力たるや・・・。純コンサートホールではない倉敷市民会館ゆえ、倍音が乱反射して(2階席では)音が割れていたが、そんなものもお構い無しに迫力で押し切った。
・アンコールは能登半島地震の犠牲者追悼として演奏されたグリーグ/過ぎにし春。すすり泣く声が客席から響き、終演後広上さん、朝岡さん、お二人が持つ透明の募金箱にみるみるお札が入っていく。朝岡さんが「硬貨でも大丈夫です〜」と叫ぶほど。流石は気風の良い倉敷人。
・プロムナードからして金井さんのトランペットが素晴らしい。広上さんは髭を蓄えられて、それが威厳というより可愛らしさに拍車をかけて、まるで七人の小人に居そう(失礼極まりない!)。「殻をつけた雛の踊り」での、コミカルな指揮(というか、踊り)に木管の皆さん、よく吹き出さないよなあ(笑)と
・広上さんのタクトは、外連味あふれる緩急自在のテンポ。古城などでは、指揮・・というより身悶えするようなボディランゲージで情感たっぷりに歌わせる。
・ビドロのソロは音の感じはユーフォニウムではなくチューバのように思ったが、フィナーレで使っていたチューバとは違うもの。
・大好きな「リモージュの市場」や「テュイルリー」での洒脱かつ柔軟な表現の一方で「バーバ・ヤーガの小屋」「キーウの大門」の大迫力たるや・・・。純コンサートホールではない倉敷市民会館ゆえ、倍音が乱反射して(2階席では)音が割れていたが、そんなものもお構い無しに迫力で押し切った。
・アンコールは能登半島地震の犠牲者追悼として演奏されたグリーグ/過ぎにし春。すすり泣く声が客席から響き、終演後広上さん、朝岡さん、お二人が持つ透明の募金箱にみるみるお札が入っていく。朝岡さんが「硬貨でも大丈夫です〜」と叫ぶほど。流石は気風の良い倉敷人。
・それに加えて先ほどまで熱演を繰り広げた広響団員さんも降りて来て観客と交流していた。広響、ホントに雰囲気のいいオケで、終演後は舞台上で和気藹々と互いの労を労い、着替えもせぬままロビーまで来て見送ってくれる。また福山定期で皆さんの演奏を聴きにに行くぞ!という気にさせてくれる。
・最後に、この2日間で岡山フィルと広響という2つのオケを聴く機会に恵まれ、自分の中で「おっ」と思う発見があったので、記事を改めて書きたいと思う。
岡山フィル第80回定期演奏会 指揮:キンボー・イシイ Vc:上村文乃 [コンサート感想]
岡山フィルハーモニック管弦楽団第80回定期演奏会
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲
〜 休 憩 〜
ベートーヴェン/交響曲第3番変ホ長調「英雄」
指揮:キンボー・イシイ(秋山和慶のケガ入院による代演)
チェロ独奏:上村文乃
コンサートマスター:藤原浜雄
2024年5月25日 岡山シンフォニーホール
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲
〜 休 憩 〜
ベートーヴェン/交響曲第3番変ホ長調「英雄」
指揮:キンボー・イシイ(秋山和慶のケガ入院による代演)
チェロ独奏:上村文乃
コンサートマスター:藤原浜雄
2024年5月25日 岡山シンフォニーホール
・このコンサートの5日前、衝撃的なニュースが走った。岡山フィル・ミュージックアドヴァイザー(以下MA)で、今回のコンサートのタクトを振る予定だった秋山和慶さんの鎖骨骨折による入院加療のため休演が発表され、代役としてキンボー・イシイさんが立てられた。
・この5月の定期は岡山公演に加えて、津山公演が組まれており、岡フィルによっても『勝負回』と言えるだけに、影響は大きい。私自身も英雄、特に第4楽章の変奏曲を秋山さんがどう料理するのか?本当に楽しみにしていただけに落胆は大きかった。
・この5月の定期は岡山公演に加えて、津山公演が組まれており、岡フィルによっても『勝負回』と言えるだけに、影響は大きい。私自身も英雄、特に第4楽章の変奏曲を秋山さんがどう料理するのか?本当に楽しみにしていただけに落胆は大きかった。
・ただ、代役のキンボーさんは2021年1月のニューイヤーコンサートで出演した際、その巧みなフレージングと岡フィルからドイツのオケのような音を引き出していて好印象を持っていた。当時はシェレンベルガーさんがコロナの入国制限で、来るに来れない状態。当時の首席コンマスだった高畑さんとともに紡ぎだした音楽は、久しぶりに本場の音楽づくりに触れた感動を覚え今でも鮮明に思い出すことが出来る。
・お客さんの入りは6割ぐらい?この日は倉敷で角野隼斗&佐渡指揮・新日本フィルの公演(完売だったそう)と被ったうえ、岡山市内は全国植樹祭への天皇皇后両陛下行幸による大規模な交通規制(外出マインドが削がれる)、秋山さんの入院による指揮者交代という、悪条件が重なった割には、そこそこ入ったなという印象。『少々のことがあっても岡フィルを聴きに来る』という客層がかなり育っていると感じた。
・編成は序曲と「英雄」は1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型2管編成。「ロココ」は1stVn10→2ndVn8→Vc6→Va6、上手奥にCb4の10型2管編成。弦の首席陣はそろい踏みだが、管楽器はクラリネットは西崎さんではなくお久しぶりの高尾さん(広響)、ファゴットにお帰りなさいの廣幡さん(東京フィル)、ホルンに毎度よろしくお願いしますの細田さん(大響)。他は当団の首席で固める。
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
・目が覚めるような快速テンポ。指揮のキンボーさん、流石にドイツ歌劇場叩き上げの指揮者だけあって、ドラマティックな味付け。オペラ経験が豊富な指揮者特有の「仕立て」というものがあるねんなあ。なにより、これぞモーツァルト!!という音が聴こえてくる。この1曲目を聴いただけで1月のオペラ・ガラが楽しみになってくる。
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲
・この曲の主題の旋律は、ロココ時代の楽曲の具体的な旋律ではなく、チャコフスキーの自作。最近チャイコフスキーがやや食傷気味の自分としては、こんなあっさりした素敵な旋律を紡ぎだせるのがちょっと意外。最近はチャイコフスキーが当初構想した曲順である「原典版」での演奏が増えているようだが、今回はフィッツェンハーゲンによる初演時の曲順で演奏された。
・上村さんはチェロを自分の体に向けて倒し気味で構える。まるで仰向けになった大型犬を抱きかかえる感じで、チェロと一体化しているように映る。その奏でられる音は、ピュアで爽やかでありつつも深みがあって、どの音域であっても柔らかく気品を讃えている。その一方で時折見せるデモーニッシュな一面にも惹き込まれてしまう。
・何よりも印象的だったのは、超絶技巧が音楽的に深い意味を持って表現されている事だった。第2変奏の2つの旋律を同時進行する場面は、それまで一人で踊っていたダンスが2人になったような面白さがあり、第7変奏へ向かう直前のフラジョレットは、その後の熱狂を予感するかのような静けさの中にも緊張感をはらませ、最後の第7変奏の高速パッセージではチェリストのテクニックよりも管楽器との丁々発止の面白さが前面に出る。つまりは高度な技術を前面に押し出すのではなく、表現のための手段として技術があるので、聴き手は曲そのものを深く楽しめるのだ。
・アンコールはバッハ/無伴奏チェロ組曲第3番からブーレー。こんな天国的なブーレーは初めて聴いた。本当に素敵な時間だった。
・お客さんの入りは6割ぐらい?この日は倉敷で角野隼斗&佐渡指揮・新日本フィルの公演(完売だったそう)と被ったうえ、岡山市内は全国植樹祭への天皇皇后両陛下行幸による大規模な交通規制(外出マインドが削がれる)、秋山さんの入院による指揮者交代という、悪条件が重なった割には、そこそこ入ったなという印象。『少々のことがあっても岡フィルを聴きに来る』という客層がかなり育っていると感じた。
・編成は序曲と「英雄」は1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型2管編成。「ロココ」は1stVn10→2ndVn8→Vc6→Va6、上手奥にCb4の10型2管編成。弦の首席陣はそろい踏みだが、管楽器はクラリネットは西崎さんではなくお久しぶりの高尾さん(広響)、ファゴットにお帰りなさいの廣幡さん(東京フィル)、ホルンに毎度よろしくお願いしますの細田さん(大響)。他は当団の首席で固める。
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
・目が覚めるような快速テンポ。指揮のキンボーさん、流石にドイツ歌劇場叩き上げの指揮者だけあって、ドラマティックな味付け。オペラ経験が豊富な指揮者特有の「仕立て」というものがあるねんなあ。なにより、これぞモーツァルト!!という音が聴こえてくる。この1曲目を聴いただけで1月のオペラ・ガラが楽しみになってくる。
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲
・この曲の主題の旋律は、ロココ時代の楽曲の具体的な旋律ではなく、チャコフスキーの自作。最近チャイコフスキーがやや食傷気味の自分としては、こんなあっさりした素敵な旋律を紡ぎだせるのがちょっと意外。最近はチャイコフスキーが当初構想した曲順である「原典版」での演奏が増えているようだが、今回はフィッツェンハーゲンによる初演時の曲順で演奏された。
・上村さんはチェロを自分の体に向けて倒し気味で構える。まるで仰向けになった大型犬を抱きかかえる感じで、チェロと一体化しているように映る。その奏でられる音は、ピュアで爽やかでありつつも深みがあって、どの音域であっても柔らかく気品を讃えている。その一方で時折見せるデモーニッシュな一面にも惹き込まれてしまう。
・何よりも印象的だったのは、超絶技巧が音楽的に深い意味を持って表現されている事だった。第2変奏の2つの旋律を同時進行する場面は、それまで一人で踊っていたダンスが2人になったような面白さがあり、第7変奏へ向かう直前のフラジョレットは、その後の熱狂を予感するかのような静けさの中にも緊張感をはらませ、最後の第7変奏の高速パッセージではチェリストのテクニックよりも管楽器との丁々発止の面白さが前面に出る。つまりは高度な技術を前面に押し出すのではなく、表現のための手段として技術があるので、聴き手は曲そのものを深く楽しめるのだ。
・アンコールはバッハ/無伴奏チェロ組曲第3番からブーレー。こんな天国的なブーレーは初めて聴いた。本当に素敵な時間だった。
ベートーヴェン/交響曲第3番変ホ長調「英雄」
・市民革命の推進者であったナポレオンが皇帝の戴冠をしたことで、ベートーヴェンが「奴も俗物であったか」と楽譜を破り捨てたエピソード、今回のプログラム解説には自筆譜には「ボナパルトに捧ぐ」の文字が消されているのみで、破り捨てた事実はないところまで触れ、「英雄」とは誰なのか?ミステリアスなのが面白い、と締められていた。
・ここで想像の翼を広げてみる。ベートーヴェンを含め、なぜナポレオンは西欧世界でカリスマたりえたのか?一言で言えば、門閥貴族が幅を効かせていた社会構造を根本から変革し、血統や門地に関係なく優れた人間が能力を遺憾なく発揮できる社会を作ってくれるのではないか?という期待だったろう。ベートーヴェンも芸術家が貴族に従属するのではなく、依頼者と受託者として対等な関係を望んでいる、権力を笠に自分を小間使いのように使うような貴族に対する燃え盛るような怒りを持っていた。
・ナポレオンは、コルシカ島出身の新興下級貴族という出自を隠しもしなかった。自らの才覚でのし上がり、自分の能力と民衆の支持で皇帝の座に上り詰めたことを誇示するかのように、戴冠式では、古来の儀礼=神聖ローマ帝国皇帝は宗教権力から王冠を授かる=を無視し、自分の手で自らの頭に王冠を頂くという、一種のパフォーマンスを演じ、門閥貴族たちの牛耳る社会に辟易としていた民衆からは熱狂的な支持を得ていた。
・同時に「英雄」が作曲された1804年に制定されたナポレオン法典は、①法の前の平等、②私的所有権の不可侵、③個人の自由、などを基本原則とした画期的な市民法であり、ベートーヴェンが切望していた理想社会実現に向かう大きな一歩となりうる内容だった。つまりはナポレオンの皇帝戴冠の報に接してベートーヴェンが憤慨するとは考えにくいのだ。
・ベートーヴェンは1809年にナポレオンの弟でヴェストファーレン王国国王となったジェローム・ボナパルトからの宮廷楽長の就任依頼に対し受諾の意志を伝えている(結局、ウィーンから離れられなかったが)、クロイツェル・ソナタを献呈したロドルフ・クロイツェルは明らかにナポレオン側の人物であるし、これらのことから、ナポレオンの皇帝戴冠以降も共感と支持を示していたと考えるのが妥当だろう。
・では、「英雄」とは誰のことか?それは、ナポレオンや自らを含めた、新しい時代を切り開く若い世代の勢力のイメージをギリシャ神話の「文化英雄」と言われるプロメテウスに託したのがこの交響曲だったのだろうと思う。
・余談・妄想はさておき、演奏の感想を。冒頭で触れたとおり、キンボーさんのタクトに期待はしていたが、いや、これは鮮やかなんてもんじゃないタクトさばき。 両者、相性がめちゃくちゃいいじゃないですか。今年の岡山フィルは定期・特別演奏会7回のうち、2回(7月定期とニューイヤー)をこのキンボーさんに託していたが、今回の代役によって7回中4回を岡フィルと共にすることに。
・第1楽章にこんなに歌が詰まっていたのか!と驚いた。旋律のすべてが歌と化し、すべての場面がドラマであり、すべてのアクセントがダンスのステップのよう。
・テンポは早め(昨今の演奏トレンドで言えば平均的なテンポ)だが、ピリオド系のギチギチに締め上げる様な解釈とは明確に一線を画し、つねに余裕をもって進めていく。自然賛歌・人間讃歌の世界をポジティブに描き出すと同時に、そのポジティブな世界にも潜む裂け目をさらけ出させ、間を置かずにどんどん次へ次へと進んでいく。悩んで立ち止まっている時間などないのだ、と言わんばかり。
・キンボーさんの指揮は音楽の流れと表現重視。もしかすると(私も20年前まではそうだったのだが)『縦の線至上主義』の人には評価が低い指揮者なのかも知れない。しキンボーさんの指揮は「はぁ?縦の線が合ってない?そんなの合わせて意味あるのか?」と言わんばかりにオケをドライブする。
・オケを制御するベクトルよりも、自由にさせて時折チョンと手綱を締める。各パート同士を「合わせる」よりも、お互いを聴きあいつつもあくまで『音楽する』『表現する』ことを優先。それによって音楽が強い推進力を得て、人間味と迫力あるサウンドを聴かせてくれた。
・第2楽章の葬送行進曲が白眉の出来、そうか、7月定期のマラ5に、葬送行進曲が繋がっていくのか・・・。重厚だけど重々しく無い葬送行進曲、様々な録音で聞き慣れている「溜め」の部分をほとんど排しているのが、かえって強く印象にのこる。そういやぁ、シェレンベルガーさんの英雄の第2楽章も同じようなアプローチだった。
・一方で、第3楽章では緻密なタクトで縦の線をビシッと合わせて見せる。客演首席の細田さん率いるホルン三重奏が見事!まあ、3番に倉持さん(広響)が入っているのでズッコいとは思うが(笑)
・第4楽章では緩急自在・ダイナミクスを広く使ってベートーヴェンの音楽に息づく鼓動と抑揚を見事に表現。この変奏曲も形式感よりも流れ重視。オケが艷やかなハーモを奏で、ほんとドイツのオケのような音がする。
・さて、今年は家族の事情で年間マイシートをリリースして、久しぶりに3階席に陣取ったのだけれど、本当によくブレンドされたいい音が聴けるんだな。「音だけ」だと3階席が最高の選択かも知れない。ただ、舞台からはだいぶ遠くて、当日、オペラグラスを忘れた上に、最近、遠近両用メガネをかけ始めたこともあって、岡フィル奏者の表情を読み取るのに苦労した。
・キンボー&岡フィルの聴き手の血が滾るような演奏は岡フィル楽員さんたちも手応えがあったようで、終演後は舞台上に満足感に満ちていたように思う。秋山さんの降板は残念だったが、秋山さんとは全然タイプが違うキンボーさんの代演は大成功だった。私が一番収穫だったのはシェレンさん以来のドイツ音楽の伝統が、キンボーさんの指揮から生き生きと感じられたことだった。それは低音から積み上げる和式解釈のドイツ音楽ではなく、豊かなフレージングと鼓動を内包するリズム感、それらが生む推進力だ。
・最後に賛助会員として、また、最近の岡フィルの集客の伸び悩みを心配するファンの一人として提言したい。
終演後、1階にあるチケットセンターに長蛇の列ができていた。おそらくこの日の演奏を聴いて、翌日の津山公演もしくは次回以降の定期のチケットを買い求める人たちだろう。しかしあまりの長い列に諦めて帰ってしまう人も多数居た。コンサート後は気分も高揚しており、チケットを売るまたと無いチャンスの筈。以前、関西に遠征している時、関西フィルや大阪フィルは、ホールのロビーに長机を広げて、次回以降のチケットをガンガン売っている様子に感心したものだ。こんな感じ↓
・ここで想像の翼を広げてみる。ベートーヴェンを含め、なぜナポレオンは西欧世界でカリスマたりえたのか?一言で言えば、門閥貴族が幅を効かせていた社会構造を根本から変革し、血統や門地に関係なく優れた人間が能力を遺憾なく発揮できる社会を作ってくれるのではないか?という期待だったろう。ベートーヴェンも芸術家が貴族に従属するのではなく、依頼者と受託者として対等な関係を望んでいる、権力を笠に自分を小間使いのように使うような貴族に対する燃え盛るような怒りを持っていた。
・ナポレオンは、コルシカ島出身の新興下級貴族という出自を隠しもしなかった。自らの才覚でのし上がり、自分の能力と民衆の支持で皇帝の座に上り詰めたことを誇示するかのように、戴冠式では、古来の儀礼=神聖ローマ帝国皇帝は宗教権力から王冠を授かる=を無視し、自分の手で自らの頭に王冠を頂くという、一種のパフォーマンスを演じ、門閥貴族たちの牛耳る社会に辟易としていた民衆からは熱狂的な支持を得ていた。
・同時に「英雄」が作曲された1804年に制定されたナポレオン法典は、①法の前の平等、②私的所有権の不可侵、③個人の自由、などを基本原則とした画期的な市民法であり、ベートーヴェンが切望していた理想社会実現に向かう大きな一歩となりうる内容だった。つまりはナポレオンの皇帝戴冠の報に接してベートーヴェンが憤慨するとは考えにくいのだ。
・ベートーヴェンは1809年にナポレオンの弟でヴェストファーレン王国国王となったジェローム・ボナパルトからの宮廷楽長の就任依頼に対し受諾の意志を伝えている(結局、ウィーンから離れられなかったが)、クロイツェル・ソナタを献呈したロドルフ・クロイツェルは明らかにナポレオン側の人物であるし、これらのことから、ナポレオンの皇帝戴冠以降も共感と支持を示していたと考えるのが妥当だろう。
・では、「英雄」とは誰のことか?それは、ナポレオンや自らを含めた、新しい時代を切り開く若い世代の勢力のイメージをギリシャ神話の「文化英雄」と言われるプロメテウスに託したのがこの交響曲だったのだろうと思う。
・余談・妄想はさておき、演奏の感想を。冒頭で触れたとおり、キンボーさんのタクトに期待はしていたが、いや、これは鮮やかなんてもんじゃないタクトさばき。 両者、相性がめちゃくちゃいいじゃないですか。今年の岡山フィルは定期・特別演奏会7回のうち、2回(7月定期とニューイヤー)をこのキンボーさんに託していたが、今回の代役によって7回中4回を岡フィルと共にすることに。
・第1楽章にこんなに歌が詰まっていたのか!と驚いた。旋律のすべてが歌と化し、すべての場面がドラマであり、すべてのアクセントがダンスのステップのよう。
・テンポは早め(昨今の演奏トレンドで言えば平均的なテンポ)だが、ピリオド系のギチギチに締め上げる様な解釈とは明確に一線を画し、つねに余裕をもって進めていく。自然賛歌・人間讃歌の世界をポジティブに描き出すと同時に、そのポジティブな世界にも潜む裂け目をさらけ出させ、間を置かずにどんどん次へ次へと進んでいく。悩んで立ち止まっている時間などないのだ、と言わんばかり。
・キンボーさんの指揮は音楽の流れと表現重視。もしかすると(私も20年前まではそうだったのだが)『縦の線至上主義』の人には評価が低い指揮者なのかも知れない。しキンボーさんの指揮は「はぁ?縦の線が合ってない?そんなの合わせて意味あるのか?」と言わんばかりにオケをドライブする。
・オケを制御するベクトルよりも、自由にさせて時折チョンと手綱を締める。各パート同士を「合わせる」よりも、お互いを聴きあいつつもあくまで『音楽する』『表現する』ことを優先。それによって音楽が強い推進力を得て、人間味と迫力あるサウンドを聴かせてくれた。
・第2楽章の葬送行進曲が白眉の出来、そうか、7月定期のマラ5に、葬送行進曲が繋がっていくのか・・・。重厚だけど重々しく無い葬送行進曲、様々な録音で聞き慣れている「溜め」の部分をほとんど排しているのが、かえって強く印象にのこる。そういやぁ、シェレンベルガーさんの英雄の第2楽章も同じようなアプローチだった。
・一方で、第3楽章では緻密なタクトで縦の線をビシッと合わせて見せる。客演首席の細田さん率いるホルン三重奏が見事!まあ、3番に倉持さん(広響)が入っているのでズッコいとは思うが(笑)
・第4楽章では緩急自在・ダイナミクスを広く使ってベートーヴェンの音楽に息づく鼓動と抑揚を見事に表現。この変奏曲も形式感よりも流れ重視。オケが艷やかなハーモを奏で、ほんとドイツのオケのような音がする。
・さて、今年は家族の事情で年間マイシートをリリースして、久しぶりに3階席に陣取ったのだけれど、本当によくブレンドされたいい音が聴けるんだな。「音だけ」だと3階席が最高の選択かも知れない。ただ、舞台からはだいぶ遠くて、当日、オペラグラスを忘れた上に、最近、遠近両用メガネをかけ始めたこともあって、岡フィル奏者の表情を読み取るのに苦労した。
・キンボー&岡フィルの聴き手の血が滾るような演奏は岡フィル楽員さんたちも手応えがあったようで、終演後は舞台上に満足感に満ちていたように思う。秋山さんの降板は残念だったが、秋山さんとは全然タイプが違うキンボーさんの代演は大成功だった。私が一番収穫だったのはシェレンさん以来のドイツ音楽の伝統が、キンボーさんの指揮から生き生きと感じられたことだった。それは低音から積み上げる和式解釈のドイツ音楽ではなく、豊かなフレージングと鼓動を内包するリズム感、それらが生む推進力だ。
・最後に賛助会員として、また、最近の岡フィルの集客の伸び悩みを心配するファンの一人として提言したい。
終演後、1階にあるチケットセンターに長蛇の列ができていた。おそらくこの日の演奏を聴いて、翌日の津山公演もしくは次回以降の定期のチケットを買い求める人たちだろう。しかしあまりの長い列に諦めて帰ってしまう人も多数居た。コンサート後は気分も高揚しており、チケットを売るまたと無いチャンスの筈。以前、関西に遠征している時、関西フィルや大阪フィルは、ホールのロビーに長机を広げて、次回以降のチケットをガンガン売っている様子に感心したものだ。こんな感じ↓
当時は紙ベースでチケットを売っていたが、今や岡山シンフォニーホールもぴあゲッティのシステムを入れているので、Wi-Fiに繋いだパソコンとプリンターさえあれば、チケットセンター以外の場所でも発券は可能なはずだ。ホールのホワイエやロビーで臨時チケット売り場を作れば機会逸失はかなり防げるのではないだろうか?
岡フィルの事務局は以前とは比べ物にならないぐらい頑張って入ると思うが、こうしたチケットの売り方ひとつとっても、他楽団ではノウハウを持っている。そろそろ他の常設プロオケの事務局でノウハウ・経験を積んだ人を幹部人材として招聘する時期に来ていると思うのだが。
岡山フィル第79回定期演奏会 指揮:秋山和慶 Vn:戸澤采紀 [コンサート感想]
岡山フィルハーモニック管弦楽団第79回定期演奏会
~春にロマンを巡る~
ベートーヴェン/「コリオラン」序曲
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
〜 休 憩 〜
ブラームス/交響曲第4番
指揮:秋山和慶
ヴァイオリン独奏:戸澤采紀
コンサートマスター:藤原浜雄
ヴァイオリン独奏:戸澤采紀
コンサートマスター:藤原浜雄
2024年3月9日 岡山シンフォニーホール
・公私ともに多忙を極めており、書きかけた感想が塩漬けになりそうなので、書けてる部分だけアップします。
・秋山ミュージックアドバイザー(以下MA)登場回、前回の10月のシベリウスは私の岡山フィル演奏体験のベスト3に入る永く記憶に残る名演奏になった。今回はドイツ2Bの名曲プログラムを披露。
・今回も秋山MA体制が2年目にして収穫期に入っていることを強く実感させる演奏だった。秋山さんの指揮は、奇抜な解釈も何かを「足す」こともないのに、淡々とならず、むしろ音楽が凝縮し、耳に慣れた名曲がとても新鮮に心に染み込んで来る。惜しむらくは集客が今一歩であったころ。客席の7割ぐらいの入だろうか。シェレンベルガーが登場した1月は満席だった事を考えると、その点が残念だった。
・編成は前後半とも1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型2管編成。昨年10月に実施されたホルン、トロンボーン、ファゴットの首席奏者オーディションの合格者の試用期間に入るかと思われたが、ホルンは阿部麿さん、トロンボーンは風早宏隆さん(関フィルの名物奏者は現在は都響の所属なんですね)、ファゴットは鈴木一志さん(日本フィル)という一流プレイヤーによる客演首席だった。
ベートーヴェン/コリオラン序曲
・真正面からベートーヴェンに向き合った重厚な音。今日もチェロ・コントラバスのつむじ風を起こすような濃厚音に、ヴァイオリン・ヴィオラが一体となってサウンドを作り上げる。いやあ、一曲目からお見事!
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
・何と言っても戸澤さん、年齢を逆算すると23歳?
アンビリーバボー!!
マーヴェラス!!
驚嘆の連続だった。
岡山は母の故郷という縁で、彼女が中学生の頃からリサイタルを開いてきたので、私も聴く機会があった。その天才少女は気鋭の若手プロ・ヴァイオリニストになって、いよいよブラームスに「挑戦」するのか?と思いきや、この大曲を手球にとらんばかりの堂々たる演奏に震える思いだった。パガニーニやチャイコフスキーとは違い、派手な超絶技巧の見せ場は少ないが、素人の私にもこの曲の難易度の高さは解る。音程、音色、音価、リズム、技巧、全てが完璧で見事に調和し、艷やかで爽快な演奏で説得力を持って聴き手を魅了した。
・今回も秋山MA体制が2年目にして収穫期に入っていることを強く実感させる演奏だった。秋山さんの指揮は、奇抜な解釈も何かを「足す」こともないのに、淡々とならず、むしろ音楽が凝縮し、耳に慣れた名曲がとても新鮮に心に染み込んで来る。惜しむらくは集客が今一歩であったころ。客席の7割ぐらいの入だろうか。シェレンベルガーが登場した1月は満席だった事を考えると、その点が残念だった。
・編成は前後半とも1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型2管編成。昨年10月に実施されたホルン、トロンボーン、ファゴットの首席奏者オーディションの合格者の試用期間に入るかと思われたが、ホルンは阿部麿さん、トロンボーンは風早宏隆さん(関フィルの名物奏者は現在は都響の所属なんですね)、ファゴットは鈴木一志さん(日本フィル)という一流プレイヤーによる客演首席だった。
ベートーヴェン/コリオラン序曲
・真正面からベートーヴェンに向き合った重厚な音。今日もチェロ・コントラバスのつむじ風を起こすような濃厚音に、ヴァイオリン・ヴィオラが一体となってサウンドを作り上げる。いやあ、一曲目からお見事!
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
・何と言っても戸澤さん、年齢を逆算すると23歳?
アンビリーバボー!!
マーヴェラス!!
驚嘆の連続だった。
岡山は母の故郷という縁で、彼女が中学生の頃からリサイタルを開いてきたので、私も聴く機会があった。その天才少女は気鋭の若手プロ・ヴァイオリニストになって、いよいよブラームスに「挑戦」するのか?と思いきや、この大曲を手球にとらんばかりの堂々たる演奏に震える思いだった。パガニーニやチャイコフスキーとは違い、派手な超絶技巧の見せ場は少ないが、素人の私にもこの曲の難易度の高さは解る。音程、音色、音価、リズム、技巧、全てが完璧で見事に調和し、艷やかで爽快な演奏で説得力を持って聴き手を魅了した。
・壮年の巨匠も真っ青の重厚な演奏を聴かせた戸澤さんだが、時折、ポジティブな意味で「若さ」を感じさせる部分もあった。
私は、この曲のこの部分がめちゃくちゃ好きなのだが、この部分の演奏でよく取られる表現として「諦観」がある。老いさらばえた者が昔を思い出すような‥「諦観」。しかし戸澤さんの表現は、光彩に包まれた未来を見るような音だった。まさに若さならではの演奏。
私は、この曲のこの部分がめちゃくちゃ好きなのだが、この部分の演奏でよく取られる表現として「諦観」がある。老いさらばえた者が昔を思い出すような‥「諦観」。しかし戸澤さんの表現は、光彩に包まれた未来を見るような音だった。まさに若さならではの演奏。
・オケも熱演を繰り広げ、オケがどれだけ鳴っても埋もれることのない戸澤さんのヴァイオリンとともにシンフォニックで重厚な世界をつくり上げた。戸澤さんは弾き急ぐ事なく、この名曲を味わい尽くすような慈しみと余裕があり、そこに付ける岡フィルの、特に弱音の美しさは特筆に値するものだった。
・第2楽章のob首席:工藤さんのソロも見事。協奏曲終了後の休憩時に管楽器仲間のみならず、Cb谷口さんまで称え労う雰囲気にニヤリとしてしまう。オーボエに絡むファゴット客演の鈴木さんのソロも濃厚な歌いまわしで素晴らしかったなぁ。
・アンコールはバッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番から「サラバンド」。これもブラームスと同様、どっしりと構えて急がず騒がず、なのに推進力のある好演だった。
ブラームス/交響曲第4番
・感想の前に、この曲の作曲時期を整理する。1884年から作曲に着手し、1885年初演。ちなみに前プロのヴァイオリン協奏曲は1879年初演。その頃のドイツは普墺戦争、普仏戦争に大勝利し、1871年に敗戦国フランスのベルサイユ宮殿でウィルヘルム1世が即位して、神聖ローマ帝国以来の領邦国家から統一国家の時代に入った。軍事力だけでなく工業生産や科学技術(ノーベル賞受賞者を連続して輩出)もヨーロッパ随一の存在となり、音楽芸術でも、ワーグナーのニーベルングの指輪の全曲初演が1878年、1876年にはバイロイト祝祭大劇場の設立など世界を牽引していた、ドイツ人は自信に満ち溢れ、社会も活気に溢れ、一種の躁状態の時代と言える。
・そんな時期に発表された、このブラームスの第4交響曲の評価は(現代から見れば信じられないことだが)、賛否二分されたようだ。特に革新的な音楽を志向する勢力からは酷評を受けていた。理由は、第2楽章のフリギア旋法や、第4楽章のシャコンヌなど、古典回帰を鮮明にしていたこと。19世紀前半には英仏から周回遅れだった近代化を急速に成し遂げ、自信と活気に満ち溢れていたドイツの人々が、中世の教会を連想させるような旋法や、領邦国家として低迷していた時代を連想させるような形式の音楽を聴いて、どう感じたか?そういう視点で見ると興味深い。
・私自身、25歳ぐらいまで4番はブラームスの交響曲の中で、一番地味で渋い曲だと思っていた。印象が一変したのはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ブロムシュテット指揮)の生演奏がきっかけ、ボウボウと烈火の炎を上げて燃え盛るような演奏に、この曲が持つエネルギーの大きさを思い知った。
・第2楽章のob首席:工藤さんのソロも見事。協奏曲終了後の休憩時に管楽器仲間のみならず、Cb谷口さんまで称え労う雰囲気にニヤリとしてしまう。オーボエに絡むファゴット客演の鈴木さんのソロも濃厚な歌いまわしで素晴らしかったなぁ。
・アンコールはバッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番から「サラバンド」。これもブラームスと同様、どっしりと構えて急がず騒がず、なのに推進力のある好演だった。
ブラームス/交響曲第4番
・感想の前に、この曲の作曲時期を整理する。1884年から作曲に着手し、1885年初演。ちなみに前プロのヴァイオリン協奏曲は1879年初演。その頃のドイツは普墺戦争、普仏戦争に大勝利し、1871年に敗戦国フランスのベルサイユ宮殿でウィルヘルム1世が即位して、神聖ローマ帝国以来の領邦国家から統一国家の時代に入った。軍事力だけでなく工業生産や科学技術(ノーベル賞受賞者を連続して輩出)もヨーロッパ随一の存在となり、音楽芸術でも、ワーグナーのニーベルングの指輪の全曲初演が1878年、1876年にはバイロイト祝祭大劇場の設立など世界を牽引していた、ドイツ人は自信に満ち溢れ、社会も活気に溢れ、一種の躁状態の時代と言える。
・そんな時期に発表された、このブラームスの第4交響曲の評価は(現代から見れば信じられないことだが)、賛否二分されたようだ。特に革新的な音楽を志向する勢力からは酷評を受けていた。理由は、第2楽章のフリギア旋法や、第4楽章のシャコンヌなど、古典回帰を鮮明にしていたこと。19世紀前半には英仏から周回遅れだった近代化を急速に成し遂げ、自信と活気に満ち溢れていたドイツの人々が、中世の教会を連想させるような旋法や、領邦国家として低迷していた時代を連想させるような形式の音楽を聴いて、どう感じたか?そういう視点で見ると興味深い。
・私自身、25歳ぐらいまで4番はブラームスの交響曲の中で、一番地味で渋い曲だと思っていた。印象が一変したのはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ブロムシュテット指揮)の生演奏がきっかけ、ボウボウと烈火の炎を上げて燃え盛るような演奏に、この曲が持つエネルギーの大きさを思い知った。
・今回の岡山フィルの演奏も真っ赤に燃え上がるような熱演。ゲヴァントハウス管の演奏に匹敵する・・とまではさすがに言えないが、まるで老いらくの恋(表現は不適切かもしれないが、他に思い当たらない)がどうしようもない程に燃え盛り、最後、悲劇的な結末を迎えるようだった。ブラームス晩年の枯れた味わいと燃え盛る鬱屈した感情が見事に両立した演奏。
・秋山さんのタクトによって、冒頭から裏拍に重心を置くことが徹底され、奏者のセンスが刺激されたようなリズムの冴えを見せた。低音弦の下降と高音弦の上昇を組み合わせる、ブラームス得意の和声進行が強烈な音の求心力を現出させ、聴き手は何度も吸い込まれそうになる。
・シェレンベルガー時代にドイツ音楽のリズムやアクセントを徹底的に叩き込み、それをベースにして秋山さんのタクトが個々の奏者の個性を引き出しつつ、明確なディレクションが提示されることで、全体のアンサンブルの完成度が一段階上がった。
・第2楽章からドイツのオケのような「泣き」が随所に聴こえ、豊かな残響に木霊するさまに陶然と耳を傾ける幸せを堪能する。
・第3楽章では木製の硬いマレットに持ち替えたティンパニ特別首席:近藤さんの流れるようなバチ捌きに魅了される。この楽章を聴いていると、この4番は「都市の音楽」だと感じる。交響曲2,3番やヴァイオリンから連想されるのは農村の風景であり農民たちの踊り、しかしこの4番は街場の風景であり雑踏。
・第4楽章のシャコンヌは、こんなにすごい曲だったんだと再発見の連続。トロンボーンから徐々に管全体に広がって行くコラールが見事。これほどの演奏、満席で聴きたかったが、学生席に鈴なりの高校生の感動する姿が救いか。
・今回のコンサートで改めて思ったのは秋山さんの手腕。一昨年の5月のMA就任記念演奏会では、終始秋山さんがリードし、岡フィルメンバーもそのタクトにひたすら「ついていく」感じだった。同年の10月定期(ブラームス1番)で早くもオケを完全に掌握し、去年の10月定期(シベリウス2番)で秋山&岡フィルの新時代の本格到来の扉が開いた。今回の岡フィルの個々の奏者の鋭敏なセンスやリズム感を集約し、曲に内在するリズムを「凄み」を感じさせるほど抉り出したタクト捌きには感服するしかない。
・秋山さんのタクトによって、冒頭から裏拍に重心を置くことが徹底され、奏者のセンスが刺激されたようなリズムの冴えを見せた。低音弦の下降と高音弦の上昇を組み合わせる、ブラームス得意の和声進行が強烈な音の求心力を現出させ、聴き手は何度も吸い込まれそうになる。
・シェレンベルガー時代にドイツ音楽のリズムやアクセントを徹底的に叩き込み、それをベースにして秋山さんのタクトが個々の奏者の個性を引き出しつつ、明確なディレクションが提示されることで、全体のアンサンブルの完成度が一段階上がった。
・第2楽章からドイツのオケのような「泣き」が随所に聴こえ、豊かな残響に木霊するさまに陶然と耳を傾ける幸せを堪能する。
・第3楽章では木製の硬いマレットに持ち替えたティンパニ特別首席:近藤さんの流れるようなバチ捌きに魅了される。この楽章を聴いていると、この4番は「都市の音楽」だと感じる。交響曲2,3番やヴァイオリンから連想されるのは農村の風景であり農民たちの踊り、しかしこの4番は街場の風景であり雑踏。
・第4楽章のシャコンヌは、こんなにすごい曲だったんだと再発見の連続。トロンボーンから徐々に管全体に広がって行くコラールが見事。これほどの演奏、満席で聴きたかったが、学生席に鈴なりの高校生の感動する姿が救いか。
・今回のコンサートで改めて思ったのは秋山さんの手腕。一昨年の5月のMA就任記念演奏会では、終始秋山さんがリードし、岡フィルメンバーもそのタクトにひたすら「ついていく」感じだった。同年の10月定期(ブラームス1番)で早くもオケを完全に掌握し、去年の10月定期(シベリウス2番)で秋山&岡フィルの新時代の本格到来の扉が開いた。今回の岡フィルの個々の奏者の鋭敏なセンスやリズム感を集約し、曲に内在するリズムを「凄み」を感じさせるほど抉り出したタクト捌きには感服するしかない。
・秋山さんはご著書で
素晴らしい演奏を聴いたお客さんが、あれが良かったここが良かった、とアフターコンサートの会話を楽しむ。
で、「ところで、きょう指揮したのは?」「誰だっけ?」
指揮者の存在というのはこういう感じで丁度良い
という主旨のことを書かれている。秋山さんのタクトは自己主張を配し、今回のブラームス4番のように、何度となく生演奏を聴いてきた聴衆にとっても、改めて「いい曲だなあ」と感じさせ、曲に内在する新たな一面を見せてくれる。その上、応援する地元プロオケがこんなに凄いオケなんだ・・・と改めて良さを感じさせてくれる。でも、一つだけ反論をするならば、「きょう指揮したのは、誰だっけ?」とはならない(笑)やはり秋山さんのタクトの凄味について感じざるを得ない。それが秋山さんの理想の指揮者の姿ではない、としても。
高畑壮平が贈る 弦楽五重奏で楽しむ新春のメロディー [コンサート感想]
弦楽五重奏で楽しむ新春のメロディー
~ドイツ在住コンサートマスター高畑壮平が贈る~
~ドイツ在住コンサートマスター高畑壮平が贈る~
テレマン/『小組曲』より 序曲ーロンドーリゴードン
ゴダール/ジョスランの子守歌
レスピーギ/『リュートのための古風な舞曲とアリア』より イタリアーナーシチリアーナ
シューベルト/『鱒』より
プッチーニ/歌劇『トスカ』より 星は光りぬ
マスカーニ/歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』より間奏曲
~ 休憩 ~
ヨハン・シュトラウスⅡ/喜歌劇「こうもり」序曲
スッペ/ボッカチオ行進曲
オッフェンバック/舟歌
ウェーバー/狩人の合唱
ヨハン・シュトラウスⅡ/南国の薔薇
ヴァイオリン:高畑壮平、中野了
ヴィオラ:橘由美子
チェロ:中村康乃理
コントラバス:嶋田真志
・高畑さんは年に2回ほどご帰国されているそうだ。今回はいつものレクチャーではなく、地元のプロ奏者の方々との弦楽五重奏(コントラバス付き)のコンサートに足を運んだ。
・プログラムはバロックからロマン派の魅力的なメロディが詰まったクラシックの小品を中心としたもの。ドイツの州立オケの第一コンサートマスターの重責から解放され、現在はこうした「エヴァーグリーン」の名曲を採り上げるコンサートをライフワークとされている。
・過去に、当ブログの感想記事を読んでくださったようで、その時、私が書いた「辻音楽家」という表現を「私にとっては最高の褒め言葉」(失礼な事を書いたな・・・と思っていたので、その反応に私も驚いた)と仰って下さった。今回の高畑さんの生き生きとした姿を拝見して、それは本音の感想だということがよくわかった。
・コントラバスの嶋田さんは岡山フィルの所属だが、他はフリーで活動されている方々で、奏でられる音楽は、まさに五人の「自由な音楽家」といった開放感があり、高畑さんがなんだか「ボヘミアンの大将」といった感じ。
・コンサートホールの無菌室の様な空間で、100人からなる巨大管弦楽を聴く醍醐味(まさに1月の岡山フィルのような)も麻薬の様な魅力があるが、今回のような、ヨーロッパの人々の暮らしが息づく街場で演奏されるような音楽にもたまらない魅力があるんよなァ。
・聴きどころは、まずは高畑さんのヴァイオリンの音。独特のコクと光沢のある音は、高畑さんのヴァイオリンでしか聴くことが出来ない。それに加えて緊張と緩和を繰り返しながら、音楽と一緒に聴き手の心を陶酔の頂点までもっていく絶妙なフレージング。特にトスカの『星は光りぬ』やカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲での濃密なフレージングが心に残った。
・チェロの中村さんは本当によく歌う。橘さんのヴィオラは呼吸が深く、ヴァイオリンやチェロが創り出す振れ幅の大きい音楽の肌理を丁寧に埋めていくような演奏。
・コントラバスの嶋田さんは、岡フィルのトゥッティー奏者で、ソロの音を聴く機会は少ないのだが、親子deクラシックの楽器紹介で超低音の「ぞうさん」の愛嬌のあるソロの印象が強く残っている。今回は上手側の席に座ってコントラバスの音をじかに浴びる位置に坐った。ものすごく繊細な弓捌きによって、とてもデリケートな音を奏でていた。コントラバスってこんな音が出るんだという発見があった。
・そして今回の最大の発見だったのが2ndVnの中野さん。こんな素晴らしいヴァイオリニストがいたとは!という驚きがあった。これまで聴きに行った室内アンサンブルなどで、メンバーとして乗っていたかもしれない。その時に気づかなかったのは私の目が節穴ないのだが、今回は高畑さんとのアンサンブルを組むことで彼の音楽性がビンビンに伝わってきたということかも知れない。
・高畑さんの奏でる音と、これほど共鳴するヴァイオリニストは他に覚えがない。ジョスランの子守歌、で二人のユニゾンかは発せられる『泣き』の音に、涙がこみ上げる。プロフィールを見る限り、まだまだお若いと思うのだが、特に短調の悲しげな旋律、レスピーギやプッチーニの歌の旋律を、襞のある深みのある音を奏でていた。
・高畑さんは弓がブチブチに切れるような熱演!でもこれには事情があって、元々空気が乾燥している所に、空調によっていっそう乾燥が進行して、弓がパンパンに膨れるという最悪のコンディションだったそう。ドイツは日本と違って冬場は適湿だと聞くし、高温多湿の夏場も含め、日本は西洋の弦楽器には過酷な気候だな。切れた弓を毟りながら「大丈夫です、まだいっぱいあります」と笑いを誘っておられた。
・曲紹介を交えながらのコンサートだったが、ウェーバーの「狩人の合唱」について、酒場やビヤホールで男たちが野太い声で(しかも皆、上手い)大いに歌って盛り上がる曲、と紹介。まあ、これが外連味たっぷりにストップ&ゴーを繰り返す、合唱が終わる部分では一層テンポを落として「曲が終わる」と見せかけて、さらに盛り上げてフィナーレになだれ込む、遊びの要素がふんだんに詰まった演奏。高畑さん曰く、楽譜には書かれてないが、ドイツの街場では「お約束」としてやってる内容を再現したとのこと
・ちょっと話が逸れます。よくよく考えてみると、ドイツの音楽の根底にはこういう「遊び」が秘められている気がする。ブラームスの交響曲第2番の第4楽章なんて最たるもので、ドイツや東欧のオケの生演奏を聴くと、少し大げさにストップ&ゴーで盛り上げて、最後に溜まったエネルギーを爆発させる。こういうのは合わせようと思って合わせたらなかなか推進力は生まれない。高畑さん率いる五重奏の演奏は、そういう意味でも本場の音楽づくりの奥深さ、愉快さ、爽快さを体現していた。
・アンコールはムーンライトセレナーデと新日本紀行のテーマ。高畑さんはドイツに渡った後、現地に馴染みすぎて一度たりともホームシックにかかったことが無いとのこと。確かにおおらかで「陽」の空気を振りまく姿は、ちょっと日本人離れしている。しかし、そんな高畑さんが日本の山河に思いを寄せたくなる曲が、新日本紀行のテーマだそう。
・用意された椅子は8割方埋まる盛況ぶり。当日券で入れたが、次回以降は前売りを買っとかないといけないかな。
シェレンベルガー&アナ・シュース デュオ・リサイタル [コンサート感想]
プレミアムコンサート
シェレンベルガー&アナ・シュース デュオ・リサイタル
C.P.E バッハ/ソナタト短調Wq.135(オーボエとハープ版)
J.S. バッハ/無伴奏フルートのためのパルティータ(オーボエ・ソロ版)
シュポーア/幻想曲ハ短調 op.35(ハープ・ソロ)
J.S. バッハ/ソナタハ長調 BWV1033(オーボエとハープ版)
~ 休 憩 ~
サン=サーンス/オーボエ・ソナタニ長調 op.166(オーボエとハープ版)
ブリテン/オウィディウスによる6つのメタモルフォーゼop49
フォーレ/即興曲変ニ長調(ハープ・ソロ)
パスクッリ/ベッリーニへのオマージュ(コーラングレとハープ版)
シェレンベルガー&アナ・シュース デュオ・リサイタル
C.P.E バッハ/ソナタト短調Wq.135(オーボエとハープ版)
J.S. バッハ/無伴奏フルートのためのパルティータ(オーボエ・ソロ版)
シュポーア/幻想曲ハ短調 op.35(ハープ・ソロ)
J.S. バッハ/ソナタハ長調 BWV1033(オーボエとハープ版)
~ 休 憩 ~
サン=サーンス/オーボエ・ソナタニ長調 op.166(オーボエとハープ版)
ブリテン/オウィディウスによる6つのメタモルフォーゼop49
フォーレ/即興曲変ニ長調(ハープ・ソロ)
パスクッリ/ベッリーニへのオマージュ(コーラングレとハープ版)
オーボエ・コーラングレ:ハンスイェルク・シェレンベルガー
ハープ:マルギット=アナ・シュース
2024年2月4日 岡山芸術創造劇場ハレノワ中劇場
・プレミアムコンサートと銘打たれており、出演者・内容は間違いなくプレミアムなのに、チケット代が3000円(会員割で2700円、ちなみに京都は5000円、東京は5500円)という、全然プレミアムじゃないのが有難い。
・客席は1階席はほぼ満席だったものの。私が陣取った2階席は空席が多く、快適な環境だった。入りは650人ぐらい?Jホールやルネスホールだと席が足りひんわな。
・聴いてから1週間たっているのに、まだ余韻が凄い。実はシェレンベルガーさんの年齢(75歳)からはやむを得ない(というより、この年齢でここまでの演奏ができるのは超人以外の何物でもないのだが)呼吸筋の衰えに起因する演奏上の瑕疵はあった、確かにあったのだが、二人の華麗で優美で格調高い音、その演奏の存在感、圧倒的な表現力は比類のないものだった。
・客席は1階席はほぼ満席だったものの。私が陣取った2階席は空席が多く、快適な環境だった。入りは650人ぐらい?Jホールやルネスホールだと席が足りひんわな。
・聴いてから1週間たっているのに、まだ余韻が凄い。実はシェレンベルガーさんの年齢(75歳)からはやむを得ない(というより、この年齢でここまでの演奏ができるのは超人以外の何物でもないのだが)呼吸筋の衰えに起因する演奏上の瑕疵はあった、確かにあったのだが、二人の華麗で優美で格調高い音、その演奏の存在感、圧倒的な表現力は比類のないものだった。
・徹頭徹尾、美しい音色と響きに満たされ、私の脳はとろけてしまいそうだった。シェレンベルガー&アナ・シュースの二人が作り上げていた世界は完ぺきで美しい秩序を作っていた。こういう感覚は、振り返ってみると、ピョートル・アンデルジェフスキさんや、内田光子さんのリサイタルなどで感じて以来だな。聴いている最中も「この世でもっとも美しい音楽を体験している」と確信を持って音楽に身も心も委ねていた。
・一つ一つの作品が、一つの人生のように生命を得て瑞々しく表現されていた。それを象徴するのが、C.P.E バッハのソナタ、J.S.バッハのソナタの終結部分。最後の一音にまで神経が行きとどいていて、長くのばされる一つの音が緊張し、最後にゆっくりと息を引き取るように緩んで集結する。一つの作品が二人の演奏によって生命を得て、人の一生が終わるように集結する。
・前回のお二人のデュオ・リサイタルを聴いたのは2014年の10月。岡山大学の鹿田キャンパスにあるJホールだった。あのガラス張りで外の世界へ開かれたJホールも素敵な空間だが、このハレノワ中ホールは黒基調の内装や客席と部隊との親密な距離感があり、表現者と観客の集中力を引き出すような「場」としての空気を感じた。このホールでの室内楽は2回目で、今回も2階席に座ったのだが、オーボエの音の抜けはよく、反響板の効果でハープもよく響いていた。この劇場での初めてのコンサートでは弦楽器の音が耳にキツイと感じたのだが、アナ・シュースさんのハープは全く問題にしない感じだった。
・そのハープ。これが本当に素晴らしかった。バッハ親子での音の輪郭がくっきりとした音、サン=サーンスやパスクッリでの歌心や自然賛歌。まさに千変万化する音色を堪能。圧巻だったのはソロ演奏。ハープって1台でこんなに迫力のある音が出るのか!と驚くような音圧に圧倒される。しかも、音は大きくなっても柔らかさや気品はいっそう増している。フォーレの即興曲は10年前のコンサートでも聴いた曲だったが、ハレノワ中劇場の空間に響きわたるアナ・シュースさんのグリッサンドは、このホールのポテンシャルを感じさせるに十分なダイナミックな演奏だった。シュポアの幻想曲も、40年クラシックの音源を渉猟してきても、まだまだこんな超名曲があったんだという素晴らしい曲との出会いを最高の演奏で体験できた。
・サン=サーンスのオーボエソナタは、かなり晩年の曲。サン=サーンスはロマン派音楽の正統ラインに乗って権力を振い、ドビュッシーなどからはかなり疎まれていたようだが、この曲をはじめ晩年の作品の無駄な部分を全てそぎ落として純化された音楽を聴くと、ロマン派音楽を極め切ってひとつの到達点に至ったのだと思う。
・この曲のロルフ・ケーネン(Pf)とのデュオのCD「フランス・オーボエ名曲集」を買ったのは私が就職1年目で、当時は軽量鉄骨の安いアパートに住当時は壁の薄いアパートに住んでいたからこういった室内楽のCDをよく買っていたのだった。慣れない仕事で疲れた心を癒してくれた1枚。解説には「音色、感性、趣味の良さ、どれをとってもフランス人以上にフランス的」とあり、インタビューでシェレンさんは「牧童が野に坐って笛を吹き、自由に即興を楽しんでいるかのように見える」と答えている。
(ジャケ写のシェレンベルガーさん、お若くてイケメン!!)
・第2楽章を聴いていると、高い空に浮かぶ白い雲、眼前に拡がる広大な牧場の緑、そこに村人たちがステップを踏んでダンスをする。第3楽章はまさに自由に即興を楽しむ。ピアノ版でも早く感じる伴奏なのに、アナ・シュースさんの手にかかれば、ハープの音が1音一音とてもクリアなのに、シェレンさんとの即興を事も無げに楽しんでいる。会場は沸騰したようなやんやの喝采。
・オーボエ・ソロで演奏されたブリテン/オウィディウスによる6つのメタモルフォーゼは、ローマ時代の詩人オウィディウスの詩「変身物語」を題材にした6曲だが、元ネタはギリシャ神話。シェレンベルガーは1曲づつ物語を説明しながら演奏してくれた(解説は英語)のだが、その言葉が聴きやすくてビックリ。岡山シンフォニーホールならこうはいかない(その代わり音楽を聴くのは最高の音響)。流石は演劇特化型の劇場だけある(笑)
・一曲目は「パン」。古今の様々な作曲家(特にドビュッシー)が曲想に取り入れた、半人半獣のパンとシリンクスとの物語がモチーフ。シェレンさんのオーボエで聴くのは2回目だが、初めの「タララ〜」のモチーフが聴こえた瞬間一気に神話の世界のアルカディアの森に惹き込まれる。最後、シリンクスが葦に姿を変えてドロンする瞬間まで、2人の神々のやりとりが見えるよう。
・2曲目はフェートン。苦難を乗り越えてようやく会えた父ヘリオスに渋々乗ることを認められた太陽の戦車。未熟であったがゆえに操ることが出来ず地上を焼き尽くしたためにゼウスの怒りを買って、最後には撃ち落とされる物語。サン=サーンスの交響詩「ファエトン」など、これも作曲家に愛されたストーリー。変拍子の連続をものともしない超絶技巧を駆使した演奏。余談だがフォルクスワーゲンが「フェートン」という高級車を売っていたが、なぜこんな不吉な結末のフェートンの名前を付けたのだろう?と思っていたらすぐにラインナップから消えていた。
・3曲目はニオベ。シェレンさんの説明ではオブラートに包んでいたが、7人の息子と娘を設けたニオベが、女神レートーに二人しか子供がいないことを揶揄。嫉妬した女神レートーは息子のアポロンと娘アルテミスに銘じてニオベの14人の子供を殺してしまうという残酷なエピソード。音楽はその壮絶なシーンではなく、一人残されたニオベの空虚な悲しみを表しているかのよう。またまた余談だが、西洋の神話・故事にはこういう「親族皆殺しエピソード」が多い。ナチスのホロコーストや、現在進行しているガザ地区のパレスチナ人虐殺などを暗示しているようで怖いものがある。
・4曲目はバッカス。いわずと知れたお酒の神様で、シェレンさんがおどけながら解説すると、会場には笑いが起こった。いやー、これもシェレンベルガーさんの自由自在な表現で印象的な音楽だった。早いパッセージでのキー捌きが圧巻。
・5曲目はナルキッソス。湖の水面に映った自分の姿に恋をして、最後は溺れ死んだ美少年で「ナルシスト」の語源になった。。ナルキッソスに一目ぼれをしたエコーは、あまりにお喋りが過ぎたために、相手が発した言葉を繰り返すことしかできないという罰を与えられていた。それで、ナルキッソスはエコーと文字通りエコーのような会話(?)をするのだが、シェレンベルガーさんの立体感ある表現に驚いた。舞台上にナルキッソスがいて、エコーは少し遠いところに居るようにしか聴こえないのだ。
・6曲目はアレトゥーサ。河の神アルペイオスの求愛から逃れるため、女神アルテミスに助けを求め、河の水とは交わらない泉に変えられてしまった妖精アレトゥーサのお話。古来から西洋絵画のモチーフにも頻繁に取り上げられているお話をオーボエ一本で表現。何かから逃げるような切迫感がありながら、優雅さも失わないオーボエの音。力強い最後の音の伸びが今でも耳に残る。
・最後は2014年のリサイタルでもトリをつとめた(?)このデュオの十八番のパスクッリ/ベッリーニへのオマージュ。「オーボエのパガニーニ」と称されたオーボエの名手が、ベッリーニのオペラ『夢遊病の女』『海賊』のモチーフを散りばめた作品。もうこれは『至芸』という他はない。序奏の大見得を切ったハープのグリッサンドの後、名歌手が登場したように大いに歌うコーラングレ!日本語には「芝居がかっている」というと少し否定的なニュアンスを含むが、イタリア音楽はここまで吹っ切らないと盛り上がらない!
・シェレンさんとアナ・シュースさんの音楽は推進力を得て、どんどん熱を帯びる。途中、ハープ・オーボエ双方にカデンツァがあり、妙技を披露。「あー、いいなあ~」と思っていると、さらなる高みへと誘ってくれる。その盛り上がりは直線的ではなく、寄せては返す波をいくつも超えながら、頂点へと向かっていく。1月の岡フィルでのボレロでも同じような音楽の作り方だった。
・先に紹介したCDの解説の言葉を借りるなら、「音色、歌心、ドラマ、どれをとってもイタリア人以上にイタリア的」であろうか。
アンコールは
・ヴィラ ロボス:ブラック スワン(イングリッシュ ホルンとハープ)
・シューマン:リーダクライスより「月夜」(オーボエとハープ)
・2013年10月13日。ベートーヴェンの「英雄」冒頭の2発の和音。思えばあれがシェレンベルガーさんと岡山の人々との関係が始まる号砲だった。あれから11年、両者の関係は家族のように親密になり、この日のコンサートも濃密で穏やかな空気が流れていた。
・岡山フィルのニュー・イヤーCでのパリにちなんだプログラムに、このリサイタル・・・・「シェレンベルガー祭りが終わった・・・・」というさみしさが付きまとう。スケジュール的に毎年は無理でも、2年後ぐらいには再びシェレンベルガーさんの音楽に触れられることを願っている。
岡山フィル ニューイヤー・コンサート2024 指揮・オーボエ:シェレンベルガー [コンサート感想]
岡山フィルハーモニック管弦楽団 ニューイヤー・コンサート2024
ラヴェル/道化師の朝の歌
モーツァルト/フルートとハープのための協奏曲(オーボエ版)K.299*
モーツァルト/フルートとハープのための協奏曲(オーボエ版)K.299*
〜 休 憩 〜
モーツァルト/交響曲第31番「パリ」K.297
・1曲目前のチューニングのあと、シェレンベルガーさんが登場した瞬間、客席から沸騰するような盛大な拍手が起こった!この時点で目頭が熱くなる。やっぱ岡山人はシェレンベルガーさんが好きなんだな。
・プログラムは始めと締めにラヴェル、そのラヴェルに挟まれるモーツァルトの2曲はパリ滞在中に作曲された曲ということで、フレンチ色に彩られた粋なプログラム。
『オーボエとフルートは、同じ木管楽器の仲間であるが、発音システムを始め様々な事柄が違う。顕著な違いは演奏可能音域である。音域が違うという事は、音楽的に美しく響く音域も全く異なる』と、このフルートをオーボエに置き換えるプログラムがいかに困難であるかを説明にしてくれている。
・さらにプログラムには、この曲を取り上げシェレンベルガーの意図を『オーボエの曲はやりつくしてしまっていて、もうやる曲がない』とストレートに書いている(笑)ハイドン、モーツァルト、R.シュトラウスはやり尽くし、室内楽でもモーツァルトやハイドン、アルビノーニ、マルチェロなど主要曲はやり尽くしている。つまりは岡山の人々は世界一級のオーボエ奏者の演奏で、主要曲をほぼ聴き尽くしているという事で、これは本当に凄いことだ。
・このK.299は、マルギットさんと元祖フルートの貴公子:グリミネッリとの共演で2014年10月定期で採り上げている。同じ素材を一味違った味付けで岡山のファンを喜ばせてあげよう、というシェレンさんの思いがこもっている。
・演奏については、確かに、音の跳躍や息の長いフレーズではオーボエでは物理的に対応できない様子は散見された(それでももしかしたら全盛期のシェレンさんなら問題にしなかった可能性もある)。しかし、それを補って余りある美しく芳醇な音!!「オーボエってこんな音が出るんだ!」と。
・本来フルートのために書かれたこの曲を、独特の柔らかい音色を持つシェレンさんのオーボエから、さらに柔らかくブリランテな音色を引き出し、マルギットさんの明快かつ柔らかく深い音色と相まって、夢のような時間が流れた。私は「死んだあとにこんな音楽が流れている世界に行けると確約されたら、死は怖くなくなるよなぁ」とさえ思った。
・オーケストラも見事。リードはシェレンベルガー3:浜雄さん7ぐらいの割合で、コンマス:藤原浜雄さんのリードが光った。しかも、第2楽章の濃厚かつ優美な音、第3楽章での切れ味鋭いが優雅さも漂わせる音は、まさにシェレンベルガーさんと岡山フィルが作り上げてきた音だった。9年間の両者の音の彫琢プロセスを見てきた私にとっては、最高に熟した果実を口にするような喜びを感じた。
・アンコールはシューマンの歌曲から「月夜」。この曲はジャン・チャクムルのピアノの伴奏でアンコールで演奏された曲。ピアノよりも幻想的なハープの音をバックに人の声のようなオーボエの歌。身体に染みました。
・この日の演奏に共通するのだがエレガントかつブリランテな音を保ちつつ、音楽が高揚していくこと。Aメロのターータタタタタタタッタタター、が、ファーーラララララララッラララ~、という感じで音の輪郭に気品をまとい、優雅な音をホールに響かせる。この曲の生演奏を聴くのは、たぶん7回目ぐらいだと思うけど、こんな響きは初めて。
・前述のフルート以外の個人技の目立ったところでは、何と言っても九響から客演首席の高井さんの柔らかいグリッサンド、小太鼓の安定度、ミュートを付けても柔らかさを失わないトランペット、などなど,管打楽器の名手たちのエキシビションの様相。
・いよいよヴァイオリン隊が弓を持ち、デュナーミクが大きくなる。そこからの迫力が圧巻で、過去に聴いたボレロよりも強い音圧を感じた。Aメロ、Bメロともに彫りの深いフレージングで、稜線を描くようなデュナーミクの強弱、その山が徐々に徐々に大きくなっていく。私の脈拍は140ぐらいになり、汗ばんで来るほどだったが、音圧に身を任せるような快感が身体を貫く。
・この感覚と同じものを味わった事がある。それは京響の2017年11月定期で聴いた、ジョン・アダムズのハルモニーレーレだ。
その時の感想を読み返すと「自分の心臓の鼓動が共鳴して音楽との不思議な一体感がたまらなかった」とあり、まさにこの感覚をシェレンさんと岡山フィルのボレロでも感じられた。
ボレロはミニマル・ミュージック登場の40年も先駆けて、ミニマル・ミュージックを作っていた!そして、それをシェレンベルガーさんの絶妙なフレージングで、人間のプリミティブな感性を呼び覚まし、得も言われる快感に浸らせてくれた。
・豊かな倍音に包まれる幸福感に満ちたラスト。岡山シンフォニーホールの「バケモノ音響」を感じるに相応しい楽曲だった。あれだけ大音量で鳴っても、各パートの解像度が高いまま聴こえて来るのは驚異的。銅鑼やバスドラムの爆音に負けずに弦楽器や木管の音がハッキリ聴こえた。今年の7月にはマーラー5番がある、オーケストラ福山定期で採り上げられるアルプス交響曲とか、ショスタコーヴィチの交響曲とか、このホールの本領が発揮される音楽をもっと聴きたい。
・この日の会場で一番不幸(?)なのは、実はステージ上の奏者の皆さんだったかも。だって客席でこの音が聴けないなんて・・・そんなことを思ってしまった。
・今回のパリに因んだプログラムは、中間の2曲はフランス革命前のアンシャン・レジーム晩年の音楽で、貴族的な雰囲気が濃厚。道化師の朝の歌は1905年の作曲で、フランス革命以来100年に亘った政治的混乱期を脱して第三共和政の全盛期に入り、音楽文化の面でも世界の中心に君臨していた時期だろう。その当時の空気を内包し現代にも通じるセンスの塊みたいな曲。ボレロは第一次世界大戦を経た1928年の作曲。ロマン派の終焉と厭世的な時代の空気にラヴェル自身も動揺し、前衛や即物主義に押されつつも決然としたエネルギーをもって作られた、その魂を感じた。一言で「パリゆかりの選曲」と言っても、これほどの違いがある、その一方で人の心を捉え、感動させ、時代は代わっても受け継がれるものも感じさせた。本当にいいプログラムだった。
ラヴェル/ボレロ
指揮・オーボエ独奏*:ハンスイェルク・シェレンベルガー
ハープ独奏*:マルギット=アナ・シュース
コンサートマスター:藤原浜雄
ハープ独奏*:マルギット=アナ・シュース
コンサートマスター:藤原浜雄
2024年1月21日 岡山シンフォニーホール
・今回のプログラムは、2022年3月に予定されていた、シェレンベルガーの岡山フィル首席指揮者最終公演として企画されていたが、コロナ感染拡大による入国禁止措置のために今回に延期になったもの。
・編成は道化師の朝の歌とボレロが1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型に、道化師の朝の歌の方は変則2管、ボレロは3管編成。パーカッションも多彩でホールに入った瞬間、所狭しと並ぶ楽器に『おおー』っと声を上げてしまう。2曲目のモーツァルトの協奏曲は1stVn8→2ndVn6→Vc4→Va5、上手奥にCb2の8型、3曲目のパリ交響曲は10型。
・昨年10月にTb、Hr、Fgの首席指揮者オーディションが行われたこともあり、今回からデビューがあるかと思ったが、流石に試用期間一発目でボレロは無かったか。今回も客演首席が多かった。トロンボーンは高井郁花(九響)さん、ホルンは細田昌宏さん(大響)、ファゴットは奈良和美さん(群響)、ボレロでソロがあるサックスは田畑直美さんと高畑次郎さん(ともに大阪シオン)という布陣。
・この日は近隣で注目コンサートが重なっていて、児島では福田廉之介&中桐望Duo、福山では京響の福山公演(しかもメインがボレロ+ハープ協奏曲もあるモロ被りプログラム)に客を取られないか心配していたが、私の心配をよそに客席は9割の大入り。
・編成は道化師の朝の歌とボレロが1stVn12→2ndVn10→Vc8→Va8、上手奥にCb6の12型に、道化師の朝の歌の方は変則2管、ボレロは3管編成。パーカッションも多彩でホールに入った瞬間、所狭しと並ぶ楽器に『おおー』っと声を上げてしまう。2曲目のモーツァルトの協奏曲は1stVn8→2ndVn6→Vc4→Va5、上手奥にCb2の8型、3曲目のパリ交響曲は10型。
・昨年10月にTb、Hr、Fgの首席指揮者オーディションが行われたこともあり、今回からデビューがあるかと思ったが、流石に試用期間一発目でボレロは無かったか。今回も客演首席が多かった。トロンボーンは高井郁花(九響)さん、ホルンは細田昌宏さん(大響)、ファゴットは奈良和美さん(群響)、ボレロでソロがあるサックスは田畑直美さんと高畑次郎さん(ともに大阪シオン)という布陣。
・この日は近隣で注目コンサートが重なっていて、児島では福田廉之介&中桐望Duo、福山では京響の福山公演(しかもメインがボレロ+ハープ協奏曲もあるモロ被りプログラム)に客を取られないか心配していたが、私の心配をよそに客席は9割の大入り。
・1曲目前のチューニングのあと、シェレンベルガーさんが登場した瞬間、客席から沸騰するような盛大な拍手が起こった!この時点で目頭が熱くなる。やっぱ岡山人はシェレンベルガーさんが好きなんだな。
・プログラムは始めと締めにラヴェル、そのラヴェルに挟まれるモーツァルトの2曲はパリ滞在中に作曲された曲ということで、フレンチ色に彩られた粋なプログラム。
ラヴェル/道化師の朝の歌
・冒頭のピチカートが少し息が合わなかったが、トゥッティーではバシッと決めてくれる。最近、クラシックに興味のないと思っていた知り合いが、シェレンベルガーさんだけは聴きに行くという事を知って話をしてみると、「シェレンベルガーさんって、横乗りで演奏してくれるから好きになった」と言っていて、この演奏を聴いてなるほど!と。
・他のオケで聴いたときは、典型的な縦乗りのリズムで「ズンチャズンチャ」とズンドコ節になっていたのが、シェレンベルガーさんのタクトにかかれば、見事に優雅にスイングしているのだ。聴いていて楽しくなるし気持ちがいい。
・他のオケで聴いたときは、典型的な縦乗りのリズムで「ズンチャズンチャ」とズンドコ節になっていたのが、シェレンベルガーさんのタクトにかかれば、見事に優雅にスイングしているのだ。聴いていて楽しくなるし気持ちがいい。
・2曲目に吹き振りのコンチェルトがあることもあって、指揮台なしだったが、恐らく190cm近い身長があるので全く問題ないようだった。
モーツァルト/フルートとハープのための協奏曲(オーボエ版)K.299*
・2曲目では自らオーボエを持ち、奥方で元ベルリン・フィルのマルギットさんがハープを受け持つ。プログラムには『オーボエとフルートは、同じ木管楽器の仲間であるが、発音システムを始め様々な事柄が違う。顕著な違いは演奏可能音域である。音域が違うという事は、音楽的に美しく響く音域も全く異なる』と、このフルートをオーボエに置き換えるプログラムがいかに困難であるかを説明にしてくれている。
・さらにプログラムには、この曲を取り上げシェレンベルガーの意図を『オーボエの曲はやりつくしてしまっていて、もうやる曲がない』とストレートに書いている(笑)ハイドン、モーツァルト、R.シュトラウスはやり尽くし、室内楽でもモーツァルトやハイドン、アルビノーニ、マルチェロなど主要曲はやり尽くしている。つまりは岡山の人々は世界一級のオーボエ奏者の演奏で、主要曲をほぼ聴き尽くしているという事で、これは本当に凄いことだ。
・このK.299は、マルギットさんと元祖フルートの貴公子:グリミネッリとの共演で2014年10月定期で採り上げている。同じ素材を一味違った味付けで岡山のファンを喜ばせてあげよう、というシェレンさんの思いがこもっている。
・演奏については、確かに、音の跳躍や息の長いフレーズではオーボエでは物理的に対応できない様子は散見された(それでももしかしたら全盛期のシェレンさんなら問題にしなかった可能性もある)。しかし、それを補って余りある美しく芳醇な音!!「オーボエってこんな音が出るんだ!」と。
・本来フルートのために書かれたこの曲を、独特の柔らかい音色を持つシェレンさんのオーボエから、さらに柔らかくブリランテな音色を引き出し、マルギットさんの明快かつ柔らかく深い音色と相まって、夢のような時間が流れた。私は「死んだあとにこんな音楽が流れている世界に行けると確約されたら、死は怖くなくなるよなぁ」とさえ思った。
・オーケストラも見事。リードはシェレンベルガー3:浜雄さん7ぐらいの割合で、コンマス:藤原浜雄さんのリードが光った。しかも、第2楽章の濃厚かつ優美な音、第3楽章での切れ味鋭いが優雅さも漂わせる音は、まさにシェレンベルガーさんと岡山フィルが作り上げてきた音だった。9年間の両者の音の彫琢プロセスを見てきた私にとっては、最高に熟した果実を口にするような喜びを感じた。
・アンコールはシューマンの歌曲から「月夜」。この曲はジャン・チャクムルのピアノの伴奏でアンコールで演奏された曲。ピアノよりも幻想的なハープの音をバックに人の声のようなオーボエの歌。身体に染みました。
モーツァルト/交響曲第31番「パリ」K.297
・後半1曲目はモーツァルトのパリ交響曲。岡フィルでは比較的珍しいノン・ヴィヴラートのプレーンな響きが誠に新鮮。ターラララララララ↑という音階上昇は完全にドイツ語圏のオケのディクションで、強力な推進力に駆動される、これこそがシェレンさんのサウンド
・驚いたのがティンパニの近藤さんが道化師〜やボレロと同じ釜なのに、完全にバロックティンパニのように響かせる神業を聴かせてくれたこと!
・やっぱりシェレンさんのモーツァルトは絶品だな。28番以降、まだ演っていない交響曲を必ず岡山でも演って欲しいよ。
・驚いたのがティンパニの近藤さんが道化師〜やボレロと同じ釜なのに、完全にバロックティンパニのように響かせる神業を聴かせてくれたこと!
・やっぱりシェレンさんのモーツァルトは絶品だな。28番以降、まだ演っていない交響曲を必ず岡山でも演って欲しいよ。
ラヴェル/ボレロ
・ボレロはプロと言えども緊張する曲らしく、勝手にドキドキしながら聴き始めたが、フルート畠山の柔らかくブリランテに満ちた音で我に返った。シェレンさんはで各奏者を完全に信頼して奏者の一番いい音が奏でられるよう促すようなタクト。それに気付いて、聴き手の私も各奏者の名人芸を堪能することに集中。
・この日の演奏に共通するのだがエレガントかつブリランテな音を保ちつつ、音楽が高揚していくこと。Aメロのターータタタタタタタッタタター、が、ファーーラララララララッラララ~、という感じで音の輪郭に気品をまとい、優雅な音をホールに響かせる。この曲の生演奏を聴くのは、たぶん7回目ぐらいだと思うけど、こんな響きは初めて。
・前述のフルート以外の個人技の目立ったところでは、何と言っても九響から客演首席の高井さんの柔らかいグリッサンド、小太鼓の安定度、ミュートを付けても柔らかさを失わないトランペット、などなど,管打楽器の名手たちのエキシビションの様相。
・いよいよヴァイオリン隊が弓を持ち、デュナーミクが大きくなる。そこからの迫力が圧巻で、過去に聴いたボレロよりも強い音圧を感じた。Aメロ、Bメロともに彫りの深いフレージングで、稜線を描くようなデュナーミクの強弱、その山が徐々に徐々に大きくなっていく。私の脈拍は140ぐらいになり、汗ばんで来るほどだったが、音圧に身を任せるような快感が身体を貫く。
・この感覚と同じものを味わった事がある。それは京響の2017年11月定期で聴いた、ジョン・アダムズのハルモニーレーレだ。
その時の感想を読み返すと「自分の心臓の鼓動が共鳴して音楽との不思議な一体感がたまらなかった」とあり、まさにこの感覚をシェレンさんと岡山フィルのボレロでも感じられた。
ボレロはミニマル・ミュージック登場の40年も先駆けて、ミニマル・ミュージックを作っていた!そして、それをシェレンベルガーさんの絶妙なフレージングで、人間のプリミティブな感性を呼び覚まし、得も言われる快感に浸らせてくれた。
・豊かな倍音に包まれる幸福感に満ちたラスト。岡山シンフォニーホールの「バケモノ音響」を感じるに相応しい楽曲だった。あれだけ大音量で鳴っても、各パートの解像度が高いまま聴こえて来るのは驚異的。銅鑼やバスドラムの爆音に負けずに弦楽器や木管の音がハッキリ聴こえた。今年の7月にはマーラー5番がある、オーケストラ福山定期で採り上げられるアルプス交響曲とか、ショスタコーヴィチの交響曲とか、このホールの本領が発揮される音楽をもっと聴きたい。
・この日の会場で一番不幸(?)なのは、実はステージ上の奏者の皆さんだったかも。だって客席でこの音が聴けないなんて・・・そんなことを思ってしまった。
・今回のパリに因んだプログラムは、中間の2曲はフランス革命前のアンシャン・レジーム晩年の音楽で、貴族的な雰囲気が濃厚。道化師の朝の歌は1905年の作曲で、フランス革命以来100年に亘った政治的混乱期を脱して第三共和政の全盛期に入り、音楽文化の面でも世界の中心に君臨していた時期だろう。その当時の空気を内包し現代にも通じるセンスの塊みたいな曲。ボレロは第一次世界大戦を経た1928年の作曲。ロマン派の終焉と厭世的な時代の空気にラヴェル自身も動揺し、前衛や即物主義に押されつつも決然としたエネルギーをもって作られた、その魂を感じた。一言で「パリゆかりの選曲」と言っても、これほどの違いがある、その一方で人の心を捉え、感動させ、時代は代わっても受け継がれるものも感じさせた。本当にいいプログラムだった。
「オーケストラ福山定期」爆誕! ①リーデンローズと広響・京響のねらい [オーケストラ研究]
年明けに発表された福山リーデンローズの「オーケストラ福山定期」事業。広島交響楽団と京都市交響楽団という2つの有力オーケストラが、年間5回もの定期演奏会(うち、2回づつは中学生の招待公演)をリーデンローズ大ホールで開催するという前代未聞の試み。
この事業について、ネット上でも衝撃と好意をもって受け止められた。
まずはリーデンローズからの公式発表を見てみよう。
『オーケストラ福山定期は、“音楽で心を育む街”、“文化都市福山”として福山市の国内外での知名度向上、住み易い魅力的な創造都市の形成を目指し実施されるものです。年10回の公演のうち、4公演は福山・府中圏域内の中学生2年生を全員招待公演となります。』
東京交響楽団の新潟定期演奏会のように、大都市のオーケストラがフランチャイズ契約を結んで継続的に出演するという例はこれまでもあったが、2つのオーケストラが一つの会場・企画に競い合うように出演する、というのは前代未聞。広響、京響ともによく引き受けたなと思う。
リーデンローズに限らず、地元にプロ・オーケストラを持たない地方都市では公演の絶対数が少ない上に、プロ・オケの地方公演はベートーヴェン・チャイコフスキー・ブラームス・ドヴォルザークなどのごく限られた楽曲でプログラムが組まれ、練習期間も1〜2日程度で仕上げられる。もちろんプロだから水準以上の演奏は聞けるが、私の経験上この手のコンサートは本拠地定期演奏会に比べると「これは途轍もないものを聴いた!」という経験は正直言って少ない。
プロ・オーケストラの本拠地で主催公演として実施、する『定期演奏会』は特別な意味を持つ。定期演奏会には評論家や、長年、そのオーケストラを支えている耳の肥えた聴衆が聴きに来る。彼ら満足させるために本格的なプログラムを練り上げ、時間をかけて仕上げられ(初めて演奏するような曲は、何か月も前から個人練習を重ね、オーケストラが集まっての練習は3日間みっちり行うのが通例)、文字通りそのオーケストラの評価を賭して全精力を傾けて演奏される。その定期演奏会をリーデンローズ側が「興行リスクは被るから、とにかく本拠地定期演奏会と同じものを市民に聴かせてやってくれ!」と、大都市との「本物体験の格差」を一気に埋めにかかったことが極めて画期的なのだ。
福山の聴衆が年間10回もの本格的な公演に接し「これは途轍もないものを聴いた!」という体験をするわけで、いかに前代未聞の企画であるかおわかりいただけるかと思う。
リーデンローズ側も、赤字リスクを一方的に背負っているかと言えば、決してそうでは無い。本拠地定期の引っ越し公演の招聘には「本物体験の格差を一気に埋める」という最大のメリット以外にも、コスト面・興行面でもメリットがある。
例えば東京のオーケストラを招聘して名曲で固めたような【よくある地方公演】を福山で実施すると仮定する。
何十回と演奏してきた名曲と言っても、ソリストとの合わせや、指揮者の意図する音楽を表現するために、リハーサルは最低で1日は必要だろう(リハ1日は、かなりやっつけ感が強いが・・・)。前日からホールに入ってリハーサルを行うことになるから宿泊費もかかる。
ここで【よくある地方公演】のコストを計算してみよう。想定はチャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲+交響曲第5番。
リーデンローズ側も、赤字リスクを一方的に背負っているかと言えば、決してそうでは無い。本拠地定期の引っ越し公演の招聘には「本物体験の格差を一気に埋める」という最大のメリット以外にも、コスト面・興行面でもメリットがある。
例えば東京のオーケストラを招聘して名曲で固めたような【よくある地方公演】を福山で実施すると仮定する。
何十回と演奏してきた名曲と言っても、ソリストとの合わせや、指揮者の意図する音楽を表現するために、リハーサルは最低で1日は必要だろう(リハ1日は、かなりやっつけ感が強いが・・・)。前日からホールに入ってリハーサルを行うことになるから宿泊費もかかる。
ここで【よくある地方公演】のコストを計算してみよう。想定はチャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲+交響曲第5番。
楽員・スタッフの宿泊料:60人×1.2万円=72万円
人件費(平均を1日一人3万円として)
:60人×3万円×2日で360万円
旅費:60人×4万円=240万円
楽譜など諸経費:30万円
チラシやプログラム等の販促費:30万円
指揮者+ソリストのギャラ:100万円
運搬・セッティング費:30万円
しめて総額860万円程度の経費がかかる。
平均3000円のチケット代で、リーデンローズの普段の集客力=1200人だと、チケット収入は360万円。したがって差し引き500万円の赤字になる。
これが広響・京響による≪本拠地定期引越し公演≫のパターンだと、本拠地定期演奏会の段階で既に演奏は完成されているからリハーサルは不要。広響は当日移動が可能、京響も開演時間をわざわざ16:00にしているので、午前中に各自で京都から移動し、本番前ゲネプロは12:00開始ぐらいでやるのだろう、したがって広響と同じく宿泊費は不要。
本拠地定期と同一プロの翌日公演だから、リーデンローズ側が負担すべき楽員・スタッフの拘束日数は1日のため人件費も1日分で済む。
ざっくり計算して≪本拠地定期引越し公演≫は【よくある地方公演】に比べて、意外にもにも370万円ほどの経費が浮く。
アルプス交響曲やショスタコーヴィチなどは、編成も巨大で人件費のみならず特殊楽器のレンタル料や運搬料などもかかってくる、指揮者やソリストの実績やネームバリューによっては報酬は100万円単位で高くなるだろう。それを加味しても【よくある地方公演】と同程度のコストで回すことは充分に可能であり、世界一流レベルのソロ演奏や巨大管弦楽による大スペクタクルの特別な体験として聴衆に還元される。
9月(京響)、11月(京響)、2月(広響)のような60人程度の古典派・前期ロマン派の編成なら、【よくある地方公演】よりも安くなるパターンも充分に有り得る。
リーデンローズ側だけでなく、オーケストラ側にもメリットはある。京都市交響楽団は 2008年の広上淳一常任指揮者就任以来、定期演奏会2日連続公演の完全実施を悲願としてきた。日程が2日間あると、聴衆も都合がつけやすいし、何より『本番』を2日経験することによるオーケストラの演奏能力の向上というメリットは大きい。私も京都観光を兼ねて、土日の2日とも京響の定期演奏会に足を運んだりしていたが、2日目の公演で、演奏内容の次元が一段上がるような体験をしたことも多い。
2019年の事務局さんのインタビューでは
「いずれは定期演奏会全てを2日公演にしたいのですが、現在は偶数月が1日、奇数月が2日公演と決めています。集客を考えて、出演者やプログラミングに工夫をしてはいますが、2日公演をいっぱいにするのは大変なことが多いのが現状です。しかし、ここで1日に戻してしまえば、今、キャパ1800を超えてご来場くださっているお客様に聴いて頂けなくなります。まだまだ大変な道のりですが、2日公演3600の客席をいっぱいに出来るように、今が踏ん張りどころだと思っています。」
とのコメントを出している。
しかし、コロナ禍で状況が一変し、京都コンサートホールの立地の悪さ(大阪から1時間以上かかる)も災いして集客力が低下。そのため日曜日公演を廃止し、金・土連続公演の場合は金曜日公演を『フライデーナイトスペシャル』と称し、プログラムを土曜日公演よりチケット代を1500円ほど安くする戦略に転換していた。
来年度からの福山定期5公演(一般公演3公演+中学生招待2公演)の参入によって、変則ではあるが定期演奏会2日連続公演の完全実施に一気に近づくことになったわけだ。
広響も、『プレミアム定期』や大阪・東京公演などを除いて、定期演奏会は原則1日しかないが、年に5回も2日連続公演が組まれるようになれば、演奏力が向上する足掛かりになるだろう。
次に考察するのは、リーデンローズだけでなく、それをバックアップする福山市の狙いである。
年間10回のプロ・オケの本拠地定期引越し公演、しかも4回はチケット代を取らない中学生招待公演となれば、4000万円~5000万円の補助金が必要になるだろう。これは岡山市が岡山フィルに対して支出する補助金を軽く凌駕する。
ここまでの予算を組むメリットはどこにあるのか?冒頭にも掲載した、リーデンローズからの公式発表の中に、重要な言葉があった。
『オーケストラ福山定期は、“音楽で心を育む街”、“文化都市福山”として福山市の国内外での知名度向上、住み易い魅力的な創造都市の形成を目指し実施されるものです。年10回の公演のうち、4公演は福山・府中圏域内の中学生2年生を全員招待公演となります。』
拙ブログを以前からお読みいただいている方はピンときたのではないですか?
続きは記事を改めます。
リーデンローズ側だけでなく、オーケストラ側にもメリットはある。京都市交響楽団は 2008年の広上淳一常任指揮者就任以来、定期演奏会2日連続公演の完全実施を悲願としてきた。日程が2日間あると、聴衆も都合がつけやすいし、何より『本番』を2日経験することによるオーケストラの演奏能力の向上というメリットは大きい。私も京都観光を兼ねて、土日の2日とも京響の定期演奏会に足を運んだりしていたが、2日目の公演で、演奏内容の次元が一段上がるような体験をしたことも多い。
2019年の事務局さんのインタビューでは
「いずれは定期演奏会全てを2日公演にしたいのですが、現在は偶数月が1日、奇数月が2日公演と決めています。集客を考えて、出演者やプログラミングに工夫をしてはいますが、2日公演をいっぱいにするのは大変なことが多いのが現状です。しかし、ここで1日に戻してしまえば、今、キャパ1800を超えてご来場くださっているお客様に聴いて頂けなくなります。まだまだ大変な道のりですが、2日公演3600の客席をいっぱいに出来るように、今が踏ん張りどころだと思っています。」
とのコメントを出している。
しかし、コロナ禍で状況が一変し、京都コンサートホールの立地の悪さ(大阪から1時間以上かかる)も災いして集客力が低下。そのため日曜日公演を廃止し、金・土連続公演の場合は金曜日公演を『フライデーナイトスペシャル』と称し、プログラムを土曜日公演よりチケット代を1500円ほど安くする戦略に転換していた。
来年度からの福山定期5公演(一般公演3公演+中学生招待2公演)の参入によって、変則ではあるが定期演奏会2日連続公演の完全実施に一気に近づくことになったわけだ。
広響も、『プレミアム定期』や大阪・東京公演などを除いて、定期演奏会は原則1日しかないが、年に5回も2日連続公演が組まれるようになれば、演奏力が向上する足掛かりになるだろう。
次に考察するのは、リーデンローズだけでなく、それをバックアップする福山市の狙いである。
年間10回のプロ・オケの本拠地定期引越し公演、しかも4回はチケット代を取らない中学生招待公演となれば、4000万円~5000万円の補助金が必要になるだろう。これは岡山市が岡山フィルに対して支出する補助金を軽く凌駕する。
ここまでの予算を組むメリットはどこにあるのか?冒頭にも掲載した、リーデンローズからの公式発表の中に、重要な言葉があった。
『オーケストラ福山定期は、“音楽で心を育む街”、“文化都市福山”として福山市の国内外での知名度向上、住み易い魅力的な創造都市の形成を目指し実施されるものです。年10回の公演のうち、4公演は福山・府中圏域内の中学生2年生を全員招待公演となります。』
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