レコード芸術の休刊への雑感 [クラシック雑感]
SNSやブログなどでも事実上の廃刊を惜しむ声が多かったが、殆どの方々が「最近はあまり買っていなかった」と告白しているのが印象に残った。
私はと言うと、もともと良き読者ではなかったが、イヤーブックが付いてくる1月号とリーダーズチョイスが掲載される2月号を毎年買っていた。
ただ、「この音源の評価を読みたい」「この評論家の記事を読みたい」(大阪のFMの番組などで馴染んでいたでーやんこと出谷啓、黒田恭一の評論が好きだった。父は志鳥栄八郎を参考にしていた)という動機は強く持っていて、なんだかんだと図書館で借りていたように思う。岡山では県立図書館には置いてないが、市立の中央図書館と幸町図書館の2館に置いてあり、借りやすかったことも大きい。CDがまだ高く小遣いやバイト代のやりくりが必要だった大学時代は、「ババ」を掴みたくなくてレコ芸の記事が購入の決断の重要な材料だった。
そして、実はここ2年はかつてないほど頻繁に買うようになっていた。おそらく珍しいパターンの読者だったと思う。理由は2020年11月号から電子書籍版が出るようになったことが大きい。以前のエントリーにも書きましたが、レコード芸術を購入する気になれなかった最大の理由は保管する場所が無いことだった。電子書籍で問題は解消され、今後はそこそこいい読者になれる・・・はずだったのだが・・・
最近はCDを買うことが少なくなり、NMLやSpotifyなどのサブスク音源が鑑賞の中心で、気に入ったものはハイレゾ音源を購入する、という流れだったのだが、ストリーミングやハイレゾ音源にはライナーノートがついておらず、いつ・どこで・どういうメンバーで録音されたかの基礎的データが不足している。その点、電子書籍化されたレコード芸術は基礎的なデータが揃っている上、鑑賞上のスパイスとして重要なアーティストの声やバックグラウンドの「物語」を知ることも出来る。私にとってはストリーミングで取っ替え引っ替え聴くことが出来る現代だからこそ、必要性が増した媒体として非常に重宝していた。
ただ、私のような活用の仕方は、この雑誌のスポンサーにとってはいい顧客ではなかっただろうし、伝統的スタイルに親和性がある従来の読者にとってはDXを見据えたドラスティックな改革を受け入れることは難いかっただったろう。
「音楽の友」誌がBPhのデジタルコンサートホールを嚆矢とした欧米一流アーティストのストリーミングサービスの記事を充実させていたが、レコード芸術も「クラシック版インターネット配信音源ガイド」やオーディオコーナーでの音楽配信サービス、ハイレゾ音源、4Kの動画配信などを取り上げるなど、音楽鑑賞のスタイルの変化をキャッチアップへの取り組みはあったのだが、雑誌としてのぱっと見のフォーマットは変化が見られなかったため『旧態依然』な印象を与えていたのが惜しまれる。
音楽の友社のプレスリリースには
『レコード芸術』として70余年にわたり培ってきた財産をどのようにして活用していくべきか、音楽之友社として鋭意研究してゆく所存です。
とある。一度休刊してしまえばデジタル化への改革へのハードルも下がるだろうから、例えば評論記事をデータベース化して、私のようなサブスク中心のリスナー向けに読みたい記事の切り売りや、定額化するなどすれば活路を見いだせるのではないか。雑誌としての復活は難しいだろうが、ナレッジデータベースとしての存続を模索してほしいと思う。
少しだけ雑感を書くつもりが長々とした文章になってしまった。自覚はなかったが喪失感がそれなりにあるのかもしれない。毎号欠かさず買っていた方は落胆も大きいのではないだろうか。
10年後に「あのコロナ騒動がターニングポイントだった」といい意味で振り返るようになって欲しい [クラシック雑感]
国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その2:オーケストラは国民的娯楽!?)
最高のマエストロ、マリス・ヤンソンス氏の死去 [クラシック雑感]
瀬戸内アートリージョンをクラシック音楽界にも [クラシック雑感]
湯崎知事 瀬戸芸や岡芸と積極連携 ひろしまトリエンナーレ(山陽新聞デジタル)
倉敷市児島の名曲喫茶「時の回廊」 [クラシック雑感]
広響からクリスマスカードが届く [クラシック雑感]
「三浦文彰 ヴァイオリン・リサイタル」の感想の前に [クラシック雑感]
休憩時間中にはいり、いつもならロビーに出るのだが、「ロビーに出たら、また『携帯の電源を切れ』だのとオッサンが声を張り上げてるんやろうなあ・・・、そんなん、三浦さんの美音の余韻が台無しやん」と思って、ホールの中に引きこもっていたら、なんと、そのおっさんがホールの中に入ってきて、「携帯の電源を切れ、演奏が始まったら客席には入れない」と、注意をして客席を回っていた。ホンマ、首を絞めたろかと。
音楽の友2017年2月号から大阪のオーケストラ界の現状を憂う [クラシック雑感]
「経済的基盤の弱さを反映するかのように、内容にも集客にも陰りがみられる」
「このままでは縮小再生産の道を歩むだけ」
との極めて厳しい指摘が展開されている。
指揮者とオーケストラに関する雑感 [クラシック雑感]
今日は、ある指揮者の方(仮にZ氏とします)が書かれたブログについて、思うところがあったので記事にしました。事情を知っている方は「ああ、あのことか」とわかると思いますが、混乱に拍車をかけるのは本意では無いので、知らない人は「なんのことやら」という記事になっていますがご容赦ください。
話は、財政面で窮地に追い込まれた『オーケストラX(以下Xオケ)』が、もっと集客を伸ばして収益構造を改善するために、指揮者Z氏が任命されたところまでさかのぼります。
それまでX市に多大なる貢献をしてきたXオケ。事実、市民が気軽に参加できるまちかど音楽祭でクラシック音楽のイベントとしては空前の5万人以上を集客し、街の人々を彼らの磨き抜いた技で魅了し、また野外演奏会では雨の中でも必死で演奏するXオケのメンバーに胸を打たれた市民は多く居た。
しかし、政変が起こり、政変を支持する熱狂的な市民たちが、「彼らの仕事は公(おおやけ)のお金を投入する価値なし」との暴論に同意し、Xオケを経済的に追い詰めると同時に、楽団員たちは自分たちの仕事が認められないことに落胆し自信を失いつつあった。
そんな逆境のなか指揮者Z氏が就任。Z氏がすべき仕事は、①彼らの仕事の価値は他には代えられないものであり、自信を取り戻させ前指揮者の全盛の時代の勢いを取り戻すこと。➁楽団創設者が手塩にかけて築いてきた歴史と伝統を継承し、オンリー・ワンの存在を維持すること。この2つだと私は思っていた。
しかし、Z氏が行ったのは、楽団員のプライドをズタズタに引き裂くような演奏批判と伝統の奏法の否定だった。しかもネット上に晒すという方法で。
それでも楽団員は批判を真摯に受け止めた一方で、ある楽団員は「ネットに書くのではなく直接言ってほしい」との意見表明をした。楽団創設以来の危機の苦境の中、ともに頑張っていくはずのリーダーが、後ろから鉄砲で打ちかけた。こんな状態では両者に真の信頼関係は生まれ得ないだろう。書き込みは1日で消去されたことも謎として残った。
今の世の中、「言いたいことを言うことが正義」「自分の意見を押し殺して言いたいことを言わないのはバカ」、そんな価値観が大手を振ってまかり通っている。
私に言わせれば、こういう主張をする手合いは『子供』なのだ。彼らは「リスクを取って自己責任で自分の意見を言う」ことが、なれ合いのムラ社会の日本を変えるのだ!などと思っているが、ほとんどの場合、彼らは自分が起こした混乱を自分で収拾することがはない。
少し話はそれるが、私の友人にX市で教師をしている者が居るが、「言いたいことを言うことが正義」の政治家どもが、何の考えも無しに導入した公募校長が不祥事で辞職した後、子供や地域や親の信頼回復のために、砂を噛むような思いをしながら事態を収拾したそうだ。
その政治勢力は大変な思いをしながら事態を収拾して回っている、真面目で善良な人々をバカにし。逆に「またムラ社会のやり方で根回しをしている」と吹聴して混乱を煽る。人心は荒廃し様々な分野で優秀な人材ほど流出していく。オーケストラ業界もその例に漏れない。
話を元に戻す。Xオケは500回の記念定期演奏会を迎えた。その際もZ氏は「500回という数字に意味は無い」と言った。関係者は逆境にある楽団の中でも目出度い節目を盛り上げようと、様々な企画を行った。採算を度外視し、長年のファンのために特別記念誌まで作った、そんな関係者の努力と汗に思いをはせることが出来る人間なら、あえて言わなくてもいい「格好付け」「自己演出」の言葉は言わないはず。Z氏は要するに『子供』なのだ。
今回、記事を書いた理由はZ氏がまたネットにXオケの内情を暴露したからだ。今回は確かに悪口は書いていない、しかし「Xオケは良くなった」と単純に書けばいいのに、以前の演奏批判を蒸し返し、挙げ句、1日でその記事が削除されたのは、「事務局長に口止めされた」と暴露した。要するに自分が良くした、ということを強調したいのだろう。これを見て「これではXオケの楽団員さんたちの立場が無い」と心底心配する。
私はXオケのコンサートの席でZ氏が他の指揮者の演奏批判をするのを聴いて、「音楽を聴きに来たのに、なんでこんな不愉快な思いをせなあかんのか」と思い、Z氏の出るXオケのコンサートには行っていない。だから、彼がどこまでXオケを良くしたのかの物差しを持たない。
しかし、こんな言動をするリーダーに誰がついていきますか?前指揮者はXオケの悪口を一切言わなかった。それどころか創立指揮者の音楽作りに感服し、「世界中探してもどこにも無い音」と言った。
僕が忘れられないのは、前指揮者がドイツの楽団を率いてX市に来た際、楽屋裏でのファンとの会話の中で、あるファンが「ドイツのオーケストラは、Xオケとは違いますね。凄い音ですね」と言ったとき、「Xオケだって凄いですよ、あんな音を出せるオーケストラはドイツにも無い。もし、物足りなかったとしたら僕の指揮が下手なんです」と真剣な目をして話していた。
オケを一切批判せず「自分の指揮が下手」と全責任を負う指揮者、ネットに何度も批判を展開し、周囲の努力と汗を自己演出の薄っぺらい言葉で無にする指揮者。僕は後者を支持することは出来ない。
Xオケの歴史と伝統に根差した独特のサウンド、あの魅力は抗いがたいものがある。これからもずっとあの音楽を聴かせてほしいし、そのための応援は惜しまないが・・・Z氏にこのまま期待して、願いを託していいのか?僕は今、ジレンマの中にいる。
岡山シンフォニーホールでの3階席閉鎖公演について [クラシック雑感]
2。貸館料の関係で、使用席数の制限を掛ける時は、徹底的に顧客目線に立って、音の悪い席から閉鎖し、音の良い席は開放すべき