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京都市交響楽団第616回定期演奏会(2日目) アクセルロッド指揮 [コンサート感想]

京都市交響楽団第616回定期演奏会(2日目公演)

武満徹/死と再生
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」
ベルリオーズ/幻想交響曲

指揮:ジョン・アクセルロッド
2017年9月3日 京都コンサートホール大ホール
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 やっぱり今日も白眉だったのは、ベルリオーズの幻想交響曲。
 1日目の度肝を抜かれた演奏から一夜開けてもクオリティはまったく変わらず、ってことは、この演奏がまごうことなく現在の京響の実力。昨日はあまりの調和的美しさと、ビシバシ決まる後半2楽章の追い込みに、泣きそうになるぐらい感銘を受けたが、今日は耳が慣れてきたこともあって、細かい部分まで聴きとれ、興奮しっぱなしだった。心の中でずっと「京響うまいなー」「すごいなー」とつぶやいていた感じ。
 昨日は座席の関係で、そう聞こえたのかな?程度の認識だったが、今日は逆サイドに座って改めて思ったのだけれど、第5楽章の鐘、こんなに大胆に鳴らす演奏は初めてかも。
 9/8追記
 この演奏を2日聴く幸運(日曜日は本来は勤務日で、休みが取れたのも幸運)を神に感謝したい。冒頭でも書いた通り、京響の演奏は、R.シュトラウスは昨日を上回る、武満とベルリオーズは、極めて高水準だった昨日と並ぶ演奏を聴かせてくれた。
 武満の「死と再生」は、NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)にも音源が無く、昨日が初聴きでなかなか曲全体がつかめなかったが、2回も生演奏で聴いてみると、前半2曲は同じ「死」とそこからの「魂の浄化や再生」という素材を共有しながら、こうも違うものか、と思った。
 R.シュトラウスの「死と変容」が作曲された1988年は、人間一人一人の魂や精神に重さがあった時代だったのだろう。しかし、武満の音楽からは個人や個性というものから解脱した魂の浮遊しか感じない。国や文化の違いももちろんあるだろうが、20世紀前半の大量殺戮の時代の前と後という要素がやはり大きいと感じる。 
 一方で、最後の解決和音に象徴されるように、武満の音楽の美しさも感じることが出来た。

 2曲目の「死と変容」。これは1日目とは全く違った演奏になった。特に木管陣の音に華やかさが出て、弦の音も初めから潤いがあった。病と死の恐怖にのたうち回る場面は、そもそも様々な音が錯綜しているのだが、その錯綜する音楽が完璧なコントロールで演奏された。
 しかしそれでも、後半の「幻想交響曲」のパフォーマンスの高さには追い付いていなかったかな、というのが正直なところ。違いは木管にあるように感じた。前半の木管は首席奏者を温存しての演奏。それでここまで演奏できるのだから、すごいことには違いないが、首席が出て来ると音楽の音色だけでなくオケ全体の動きや反応がまったく変わるんですよ。

 そのベルリオーズ、冒頭にも書いた通り2日目も凄い演奏になった。
 この幻想交響曲は、最近だけでもメルクル&大フィルとロト&読響の演奏にも接してきた。メルクル&大フィルも流麗で大フィルの潜在能力を引き出した演奏に感銘を受けたが、今やオーケストラの絶対的能力という点では大フィルは京響には敵わない。読響の演奏は、それはハイレベルな演奏だったが、フランソワ=グザヴィエ・ロトのピリオド奏法を基調にした急進的な解釈は、面白くはあったけれども、僕の感覚では今回のアクセルロッド&京響の抗いがたい美しさに軍配を上げたい。
 失礼ながら、西日本では随一の首席奏者陣を誇る京響ではあるが、トゥッティ奏者となると、読響などの東京のオーケストラの陣容には敵わないと思う。しかし、音楽はそれだけではないということも今回の演奏で感じた。京響の演奏は、ひとことで言えば、極めてイマジネーティブでクリエイティブかつイノベーティブであった(ひとこととちゃうやん!)

 1日目には、やはり音楽の作り出す熱狂的な空気に飲み込まれて、理屈抜きに心が動かされた部分があったが、2日目を聴いてみると、指揮者とオーケストラとの信頼関係の間で緻密に設計され、計算し尽くされての、この悪魔的熱狂なのだということがよく解った。それが証拠に、トゥッティでの各パートのバランスは完璧だったし、フォーカスを当てるパートがどこなのかもよく見える一方で、内側で動いているパートの音もよく聴こえてきた、第4楽章のモチーフの繰り返しの部分の弦楽器の激しい運指の部分も、恐ろしいまでに完璧な演奏だった。弦は第5楽章でも大トゥッティのホールが震撼するような場面でも部分でも音が埋もれることが無かったし、ベルリオーズの偏執的とも思える、グロテスクな音を出すための仕掛けもすべて完璧な演奏で答えた。

 今回が4回目の共演となるアクセルロッドとは、厚い信頼関係が出来ているのだろう。指揮者とともに緻密に音楽の下ごしらえをして、本番では、少しでも気を抜くと血しぶきが飛びそうな、両者の真剣での立ち回りを展開し、本番の聴取の前でイマジネーティブでクリエイティブな演奏を完璧にやり切った。2日目の後半2楽章のアクセルロッドさんの煽りは1日目以上だったが、京響は余裕を持って音楽に昇華させているように思えた。
 しかし、第5楽章の最後、チューバが怒りの日の旋律を咆哮する「ウラ」で鳴っているはずの弦が、アクセルロッドさんの突き刺すようなタクトに答えて、ストリングスが「空間がねじ曲がったんじゃないか?」というほど壮絶に鳴ったのにはビックリした。生演奏であんな音を初めて聴いたし、CDでもブロムシュテット&ドレスデン・シュターツカペレのライヴ演奏のものしか聴いたことが無い。あれには最後にやられたなあ。凄いものを聴かせてもらった。

 今の京響は、本当に恐ろしいまでのオーケストラだと思う。

 この日の客の入りは、土曜日よりも若干減って7割ぐらいの入り。なんと勿体ない!
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