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岡山フィル第70回定期演奏会 荘村清志(Gt) シェレンベルガー指揮 [コンサート感想]

岡山フィルハーモニック管弦楽団第70回定期演奏会

ボロディン/交響詩「中央アジアの草原にて」
ロドリーゴ/アランフェス協奏曲
〜 休 憩 〜
チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調

指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
独奏:荘村清志
コンサートマスター:藤原浜雄
2021年10月17日 岡山シンフォニーホール


oka-phil 70th.jpg


 ちょっと今回の定期演奏会は異例づくめで、シェレンベルガーの1年8ヶ月ぶりの(国際オーボエコンクールや他のオーケストラの仕事がCancelとなり、岡山フィルのためだけに、待機期間をクリアしての)登場、75%が埋まる久しぶりの「密」な客席、コンマスにまさかの"レジェンド"藤原浜雄さん、それにそれに荘村さんのアランフェス協奏曲も書きたいことがたくさんあるのだが、取り敢えず「悲愴」について触れねばなるまい。


 普段は冷静に指揮する印象のあるシェレンベルガーさんが、あれほど情感を前面に出して指揮する姿は久しぶりに(震災復興祈念演奏会のドイツ・レクイエム以来)見た。それに岡フィルのメンバーもよく応えていた。弦楽器がうねるうねる。それでいて第2楽章は美しくよく歌う。第3楽章の乱痴気騒ぎはワルプルギスの夜を通り越して、地獄の釜の蓋が開くようなグロテスクさだったし、管楽器はその第3楽章や第1楽章中間部などでは、ある意味リミッターを外して爆音を響かせていた。傷のあった演奏だったし、細部まで詰める時間がなかったのかな?と思う部分が散見されたのも事実。

 しかし、今日の演奏は傷がどうこうとかバランスがどうこうという演奏ではなかった。僕にとって、今日の演奏ほど、この曲の本質に迫ったと感じた演奏は過去になく、感銘度では今まで(恐らく30回以上?)聴いた実演の中でナンバーワンの演奏だった。


 演奏終了後、分散退場を待つまでの間、座席で放心状態だったし、帰りの車の中では何も音楽を入れたくなくて、無音で運転して帰った。


以下、詳細な感想は箇条書きで。


・1年9ヶ月間のブランクを経て、シェレンベルガーさんがついに来日した。正月に引いた御神籤に「待ち人、遅いがいずれ来る」というのはこのコトだったか!というぐらい待ちわびていた(笑)。同じように楽しみにしていた聴衆も多かったとみえ、開演の際にシェレンベルガーさんが扉の向こうから登場した瞬間、絶大な拍手とホールの空気が一瞬にして沸騰した。なんかこの瞬間にジーンと来てしまった(まだ1音も鳴っていないにも関わらず・・・)。

・会場は75%ぐらいの入りで、久しぶりに隣席に他のお客さんが座る密な状態。開演20分前にチケットセンターの前に20人ぐらいの列が出来ていた。当日券で50枚は売れていただろう。

・驚いたのは、ゲストコンサートマスターに藤原浜雄さんが乗っていたこと。日本の音楽教育を受け世界で認められた初めてのヴィルトゥオーゾだろう。まさにレジェンドのオーラが凄かったが、威圧するような重鎮オーラではまったく無かった。wikipedia情報を信用すると藤原さんは1947年前生、御年74歳のようだ。

・藤原さん、シェレンベルガーさん、荘村さんはお互いに気脈が通じるようで、調べてみて分かったのだが、荘村さんは藤原さんと同い年(なるほど!カーテンコールでの親密さはそういうことだったか)シェレンベルガーさんは1学年下(シェレンベルガーの若々しさも、ちょっと尋常ではない)、まさに古希を超えたレジェンドたちの共演だったわけだ。

・編成は、1stVn12→2ndvn10→Vc8→Va8→上手奥にCb6の12型2管編成。アランフェス協奏曲は弦が2本づつ少ない10型。

・シェレンベルガーがタクトを構えた瞬間に走る「いやー、これやで!これ!」とも言える緊張感。1曲目の「中央アジアの草原にて」から岡山フィルの音、特に弦がいい!弱音が本当に綺麗。音が消えた後、客席は何かにとり憑かれたように誰も拍手しない(笑)シェレンベルガーさんが少し両手を広げるアクションをしてから拍手が起こった。後で触れるが、この余韻の時間は「悲愴」の後にも欲しかった。。。。

・アランフェス協奏曲は、ギターの目の前にあるマイクで拾った音をアンプで増幅してスピーカー2台(うち1台はオケへ音を返す)から出して直接音を補強する方法が採られた。ギター本来のとても自然な音が増幅されていた。10型のオケとのバランスもいい感じ。

・何という深みのあるギターの音。まるで人の声のようだ。 特に第2楽章のカデンツァ、ギター一本でこんなにパースペクティブな世界が作れるんだ。距離の離れた男女の掛け合いのよう。 

・岡フィルの伴奏も見事で、結構、変拍子も多くて、トリッキーな曲だけれど上手くつけていた。ギターと掛け合うチェロの松岡さんのソロの味わい深さ、第2楽章での沼さんのイングリッシュホルンも哀愁を帯びた音で心を掴まれる。

・私の席の近くに品のいい初老の女性が座っていたのだが、荘村さんのファンのようで、今現在追っかけをするような熱烈なファンではないだろうが、若い頃には夢中になた時期があるのだろう。少女漫画の主人公もかくや、と思うほど目を爛々と輝かせて、前のめりになって聴き入っていた。私の母も荘村さんのギターは好きだったなあ。

・アンコールは禁じられた遊びの「愛のロマンス」。映画の制作費の関係でオーケストラが雇えずに、イエペスのギター一本で見事にヒット作に。70年たった今でも語り継がれる名作をイエペスの弟子の庄村さんが奏でた。


・さあ後半のチャイコフスキーの「悲愴」交響曲。昨年の定期演奏会で取り上げる予定だったが、コロナ禍で中止となり、再度採り上げられることになった。シェレンベルガーがどうしても採り上げたかった曲の一つと思う。


・この曲で重要な役回りを演じるクラリネット首席の西崎さんは降今回は降り番。代役は西川さん(群響首席)、いまだ空席のファゴット首席に柿沼さん(千葉響首席)、ホルン首席には細川さん(大阪響首席)、皆さん重要なポイントで素晴らしい演奏を聴かせた。


・演奏もかなり激しいものとなったし、シェレンベルガーさんも炎のような情熱を注いたタクトになった。こんなシェレンベルガーさんの姿は初めて見たかも知れない。「悲愴」という日本語には、なにか為す術もなく呆然と立ちすくむ感じがあるが、ヨーロッパ語圏での「pathetique」には「感情を爆発させる」というニュアンスの方が強い。来年3月末での退任が決まり、シェレンベルガーの9年間の集大成への思いも感じた。

・しかし、情熱に任せた演奏では決して無かった。この曲の持つ独特の世界の本質に迫る演奏だったと言えるだろう。僕自身もこんなに桁外れで、異形の曲だったのかと改めて思い知るような演奏だった。

・まず感じたのは、低音、特にコントラバスの音の響かせ方だ。強奏される場面では暗く悲劇的な印象を強く残すのは勿論のこと。弱音の場面でもまるで常に地響きが鳴っているように響かせて、奈落の淵に常に立たされているような緊張感を出していた。

・まず第1楽章。序奏が終わったら、テンポは超高速に切り替わり、そのタクトにオーケストラが若干、付いていけない感じで、アンサンブルが乱れる。のちに触れる展開部での完璧なアンサンブルを考えると、ここは充分に詰めきれていなかったか。

・陰鬱なこの楽章の中で、一息つけるような安らかなメロディが流れて第二主部に入るが、コントラバスの重苦しい刻みのなかからクラリネットのグリッサンドをグロテスクに強調することで、半音づつ下降する和音が不安をいっそう掻き立てる。メロディ自体もロシア正教の聖歌という、死を意識させるような陰影ある表現に仕上げて、緊張感が続いていく。

・雷が光るように展開部への入りは完璧に決まった。この展開部を劇的に表現するためにテンポの緩急をつけるものが多い中、岡フィルは同じテンポを貫いていく。タッタカタッタカというリズムは、まるで馬に乗った死神たちの大群が大地を揺らしながら迫ってくる感じ。音楽の密度は一層激しさを増していき、それが聴くものの鼓動に連動して、自分の心拍数がどんどん上がって汗が出てくるのが分かった。

・言葉では説明しづらいのでyoutubeの力を借りたいが、下の動画のこの部分。普通は金管が目立つ場面に、弦から狂ったようにうねりが起こって、息が止まるような感情がこみ上げてきた。「目の前で演奏しているのは、これ本当に岡山フィルか?この場面でこんなに弦の音って聴こえてきたっけ?」と思うほど。


・第1楽章の終結部は、ようやく短い安らぎの時間。ピチカートの中から、トランペットとトロンボーン隊の、天から注ぐような柔かな響きが印象に残る。

・第2楽章、レガートによってなだらかな稜線を描くように表現。まずチェロ隊が主題を奏で、木管が受け継ぎ弦と融合する。ヴァイオリン・ヴィオラが華やかに入ってきて、再び木管に受け渡され、心が浮き立つように弦のピチカート。再び弦が主導し金管が入るとヴィジョンが一気に広がる・・・・。ああ、いいなあ・・・。すべてが溶け合い、切なく悲しいほど美しい。後ろ姿しか見えないが、シェレンベルガーが頷きながらタクトを振っているのが解る。暖かく輝きのある、このホールと一体化した岡フィルサウンド。

・第2主題に入ると、憂鬱な感情が支配するが、シェレンベルガーはここを不安な感情に寄り添いつつも決然と進んでいく感じだ。

・第3楽章に入って雰囲気は一変する。一見、明るい曲調のようで居て、冒頭からちょっと異様さが漂っている。一つはテンポ設定。これは速い、今まで実演で聴いた中でもかなり速い部類。このテンポ感と切れ味はカラヤンを思わせるものがある。



・第2楽章で表現された人間味というか、人の心の情景というものが全く感じられない。言うなら躁うつ病の躁状態のような異様さがある。要はラリっている。

・一つは思ったのは、これはベルリオーズの幻想交響曲の第4楽章「断頭台への行進」第5楽章の「ワルプルギスの夜の夢」に似ている、ということ。

こちらは幻想交響曲の第4楽章「断頭台への行進」



音楽的には共通項を見出しにくいが、破滅に向かって突き進むそら恐ろしさが似ているように感じるのだ。この第3楽章の主題の音形は「怒りの日」に似ていて、それがメジャーの調性と行進曲で偽装されている。ワルプルギスの夜に開かれるサバト=魔女や魑魅魍魎たちが集まって人間社会に災いをもたらそうとしている。でもそれは結局、不安や恐怖心にかられた人間が作り出したものだ。現代の魔女狩りは、例えば「不要不急」という言葉が独り歩きして、人が人の生業を奪ったり誇りに傷をつけたり。。。。


・この楽章、演奏によってはテンポを一瞬落としたりして効果を出そうとするものもある中で、シェレンベルガーは第1楽章の展開部と同様、テンポの緩急はほとんど使わず、音楽の密度とダイナミクスでクライマックスへと持っていく。最後は多少の粗は覚悟の上、この曲の本質の一つは爆発する感情なのだ。オーケストラが発するパワーで押し切った感じ。

・第3楽章が終わった瞬間、チャイコフスキーが仕掛けたトラップを、シェレンベルガーが両手で制して、異形の交響曲の異形の最終楽章へ突入していく。第1楽章と同様、ファゴットが素晴らしい!!もだえ苦しむ人の声のような音。

・精神の深いところへ沈み込んでいく音楽を、言葉で表現するのは困難を極める。中間部の祈りの部分の付点音符の「タターン、タターン」という心臓の鼓動のリズムがコンサート終了後も頭から離れない。弦楽器の音が濃厚で素晴らしく、この部分があるからこそ、後の絶望の淵がより深く感じられる。最後、細心の集中力で奏でられたコントラバスが消え入るときは、自分の息も止まりそうだった。

・それだけにあの後のフライング拍手は許されるものではない。釣られて拍手した人も空気を察知して止めたのに、意地を張って続けるのは悪質である。シェレンベルガーさんの背中もあの拍手に怒っているなと感じた。

・カーテンコールの拍手のボルテージは、コロナ禍前に完全に戻ったような熱気と音量だった。あと5ヶ月でやってくる、シェレンベルガーとの(ひとまずの)お別れも、聴衆の頭によぎっていただろう。岡山の聴衆のシェレンベルガーへの思いは、これほどまでに篤い。客演コンマスの藤原浜雄さんも、この雰囲気には驚いているようだった。

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