コンサートの『場』 [クラシック雑感]
先日聴いた、長岡京室内アンサンブルの舞台配置について、何度も「奇抜な」と繰り返してしまいましたが、「百聞は一見に如かず」ということで、チェリストの金子鈴太郎さんのブログにリハーサルの写真が載っていましたので、自分への覚え書きの意味でもリンクを貼らせて頂きます。
http://ameblo.jp/rintaro-kaneko/
あと、改めてルネスホールという空間はいい『場』になっているなぁ、と思います。なんというか・・・観客が一観客としてふんぞりかえって聴くことを許さないというか、平たく言えばライブハウスの雰囲気なんですよね。
作曲家の新垣さんがプログラムにこんなことを書かれていました
「弦楽器という謎に満ちた楽器に潜む多様な音の可能性(もちろんそこにはそれを生み出す奏者の、長い厳しい修練の歴史が刻まれている)、そしてその集合体といった、私にとっては目が眩み途方に暮れるほどの媒体を目の前にして・・・・」
岡山シンフォニーホールもいいホールですが、どうしても観客は「お客さん」の位置から抜け得ないんですよね。①舞台に立つ奏者がどれほどの訓練を積んで、そこに立っているのか?②星の数ほどもある楽曲の中から、奇跡的に(まさに霊的な力を纏って)生き残ったその楽曲を演奏する、というクラシック音楽のまさに醍醐味までもマイルドにしてしまう。
ルネスホールぐらいの空間だと、その2つの事実のグロテスクさがバチンと自分のほっぺたをひっぱたくような感じがあるんですよ。この感覚は、最近まで全くクラシックに触れてこなかった僕の相方も感じていることなんで、多くの方と共有できる感覚だと思う。大原美術館のギャラリーもそういう「場」の力がありますね。
オーケストラの規模のホールでいうと、もしかすると岡山シンフォニーホールよりも倉敷市民会館の方がその「場」の力が強いかもしれない。あくまで僕の感覚ですが。
そうなると、岡山フィルが今、プレゼンスを上昇させているのは、シェレンベルガーという「場」の力を創る力が強い人が率いているからだ、と言える。
それは僕の勝手な印象ではなく、実際に奏者のポテンシャルを引き出しているのは間違いのない事実であるし、「ベートーヴェンの音楽とは何か」「ブラームスの音楽とは何か」ということをこれほど岡山フィルのコンサートで体現した音楽家は居なかった(語弊を覚悟でいうなら、シェレンベルガーという人の体に染みついたものを発揮するだけで、それが叶うような圧倒的な力)から。
客席で「他人事のような顔をして聴いている聴衆」に対して、舞台上のパフォーマーの力と、楽曲そのものの霊的ともいえる生命力でもって、そのほっぺたをひっぱたくということ。すなわち岡山の人々の心に岡山フィルの音楽という存在を植えつける。そのためには、岡山シンフォニーホールという整えられた近代装置の心理的な大改造が必要じゃないでしょうか。
シンフォニービルは間違いなく岡山の旧市街のランドマークになっているけれども、あの長いエスカレーターを登って、3回の入り口をくぐってまたエスカレーターに昇って、という空間は、どうしてもなじみのない人にとってはとてつもなく敷居を挙げている。
中に入れることに成功したとしても、整然とした座席と理想的な音響に鳴り響く綺麗な音を聴いていると、高尚な癒しの空間。でも日常ではないよね、という感じになってしまいそう。
すんません。頭の中で思いつくまま書きましたので、支離滅裂な文章になっています。また、これについては後日に書きたいな?と思います。
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