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とりあえず思うこと [クラシック雑感]

 検索に引っかかりたくないので、あえて固有名詞を書くことは避けますが・・・

 オーケストラの音がホールに鳴り響く時、それがどんな曲であっても、神々しいまでに光り輝く瞬間っていうものが、確かにあるのです。

 その音楽の背景にどんな物語が提示されようが、どんな欺瞞が仕組まれていようが、オーケストラの音が神々しく鳴り響き、それを聴いた人間が心を動かされる瞬間に、ニセモノな瞬間は無い、と信じたいのです。
 

 例の曲のコンサートは先週、岡山でもあったようです(それが現時点での「最終公演」になってしまった)。自分としては生演奏で一度聴いてみたい、という気持ちを持っていましたが、一つの曲を指揮者やオーケストラをとっかえひっかえながら演奏して全国をドサ回りする、というやり方が個人的にはあまり感心しなかったため、チケットは買いませんでした。国内のオーケストラの主催公演(定期演奏会など)で取り上げられるようになったら、聴いてみたいとは思っていたのです。その機会は、もう来ることはなさそうな気がします(長い時間の淘汰を経て生き残る曲であれば、死ぬ前に一度ぐらいはあるかもしれません)。。。
 ともあれ、これで楽曲自体にごてごてと纏わされたストーリーや標題性が取り払われて、純粋な音楽として聴けるのかもしれません。
 余談ですが、「今からCDって買えるのかな?」と思ってアマゾンを見ると、めっちゃ値段が上がっていますね・・・。まだまだあの楽曲に纏わされた余計なものが取り払われるには時間がかかりそう。

 作曲者とされていた方については、かねてから色々思うことはありましたが、「答え」が出た今から言っても仕方がないですし、それこそ鬼の首を取ったようにバッシングする側に回る行為は、(私の基準では)音楽ファンとして取るべき行為ではないと思います。

 日常の様々なことに疲れきったり、思うようにならないことばかりだったり・・・そんな時の心の支えになる音楽がある。この曲がもし自分にとって、そんな存在だったなら、そのショックは計り知れなかったでしょうね。。。その意味で、例の(自称?)作曲者の方の罪は限りなく重いとは思います。


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kei

これで楽曲自体にごてごてと纏わされたストーリーや標題性が取り払われて、純粋な音楽として聴けるのかもしれません。→→→ペテン師のような方…もしかしたら本当のペテン師さんかもしれません…が作曲の源流である事に変わり無いです。そし途中にペテン師さんがチェックしてました。どんなに無茶苦茶な人間が作曲しても曲さえ良ければ良いと言うのは。。。。。作曲者…例えばベートーヴェンさんやシューベルトさん…の血の滲むような努力や悲劇的境遇さえも鑑賞には関係ないのでしょうか?作曲家Aさん自身はちょっと勉強すれば書ける程度の曲だったとも言われてます。本物作曲家Aさんがもうこれで逃げられないと考えられた去年出た雑誌新潮45を読んで欲しいのです。   この事件よりも私はアバドさんの事をもっとテレビでして欲しいのです。
by kei (2014-02-07 11:10) 

ヒロノミンV

>keiさん
 私はあくまで、例の自称作曲家さんのなさったことは倫理的に許されることではないと思っています。その前提にたっての話です。
 突き詰めていけば、最終的にはその楽曲を演奏しよう・聴こうという人に受け継がれるかどうかだと思いますよ。
 今は大変なスキャンダルですが、それこそ、50年、100年経った後に「2010年代にはこういう出来事があって・・・」という」興味から演奏されるといった事態が起こったとしても、既に死んでいる我々には止めようもありません。同時代のわれわれにとってはけしからんことでも、100年後の人にとっては逆に学究的興味を誘うかも知れません。
 例えば、ベートーヴェンやシューベルトの楽曲から得られる感動は、彼らが血のにじむような努力が苦悩を乗り越えたから感動することが出来るんでしょうか?何百年もの間、人々の間で演奏され、感動を呼び起こし、引き継がれてきたから素晴らしいのではないですか?
 私のこの交響曲を一回聞いた印象は、ちょっと冗長だけと部分的にはハッとする部分がある、というものでずっと演奏され続けるものなのかどうかは判断しかねます。
 ただ、(それで食っている専門家の人々は別として)曲の演奏に感動した人々を冷笑するような雰囲気に、気持ち悪さを感じて、このエントリーを書いた次第です。
by ヒロノミンV (2014-02-07 18:30) 

kei

今晩は有り難うございます。
もちろんベートーヴェンさんやシューベルトさんは音楽そのものがとっても優れています。
で、その音楽には作曲家のパーソナリティは必ず出ています。つまりそれを感じ取れるかどうかの問題です。
極端な話ですが、人殺しが作った曲があったとしたら、それは作品にも必ず出ているはずです。(画家ですがカラヴァッジョ)
よく作品と作家は別物と言いますが、作品と作家は不可分の同体であって、要するに鑑賞者がそこまで作品から読み取れるかどうかの能力的な事になると思います。
今回の話では、ペテン師さんがタッチしています。自分で作曲はしていなくても、火を起こしたのはペテン師さんですし折々にチェックしてました。作品は汚れています。ゲームの音楽がとっても評判良かったから、より大きな曲を作って売って儲けてやろうとしていたのです。
作品の中には汚れが入っているはずです。それを感じれるかは鑑賞者次第です。
今回の場合、明らかに汚れが入っていることが始めから判っているのを試されようとしているのです。  すみませんです。
by kei (2014-02-07 20:33) 

kei

追伸です。
人を殺したとかペテンをしたとか具体的に判るということではもちろんありません。そういうエッセンスが入るということです。
あのペテン師さん、多分普通の感性があれば、視覚(外観)から如何わしさを感じとれるかと思います。音楽も、これと同様に、聴覚から如何わしさを感じとれるかと思います。でも、聴覚は、日頃の音楽を聴いている力で大きな差はあるでしょう。だから、引っかかったのは一般の人が殆どで、クラシックをよく聴く人は関係しなかったのだと思います。それと、曲もなんかチープな感じが強いですね。  まだ私は読んでないのですが、去年の新潮45にとても詳しいそうです。   すみません。
by kei (2014-02-07 21:26) 

ヒロノミンV

>keiさん
 コメントを拝見して、この問題は私が思っているよりも深いところに横たわっている問題と思いました。
 私は、音楽を聴いただけで如何わしさを感じ取れるか?と言われると自信がありませんし、S氏のねつ造された物語も含めて、コンサートに感動された方を批判する気にはなれません。
 ただ、クラシック音楽はそのステージのあり方からして、演出を極力排し、音楽そのものを聴衆が感じ取れる環境を整えることに心血を注いできた歴史があると思います。
 燕尾服か黒いドレスを着て、ステージ上にマイクを一切置かず、ルーティン的な進行により、音楽の持つ力を純粋な形で聴衆に届ける。
 クラシックを良く聴く人が、S氏の音楽に一定の距離を持てたとすれば(個人的には必ずしもそうではないような気もしますが)、日ごろからそういうストイックなクラシック音楽界の暗黙のルールというか空気に慣れているため、そこからはみ出したプロモーションというか売り出し方に違和感を感じるからだと思います。
 決して音楽を聴いただけで、真贋が分かる、という風には僕には思えないですし、少なくとも僕にはそんな能力はありません。
 一方で、純粋にクラシック音楽ファンの狭いサークルの中で音楽家や演奏団体、音楽産業が永続的に回していけるか?というと、明らかに答えは「否」で、レコード会社もここから得た収益で、他の才能ある音楽家のレコーディングに予算がまわせたこともあるでしょうし、演奏団体が出演料を確保でき、オーケストラの財政的な安定に寄与している部分もあるでしょう。現場で回して言っている人々にとっては、きれいごとでは済ますことが出来ない事情が現実に存在します(現にN響とか読響とか、財政的に安定している団体はこういう活動に手を出さずに済んでいますし)。
 なかなかまとまらない返信になってしまい申し訳ありませんが、関わった人、CDを買った人、コンサートに足を運んだ人を、僕は批判的な目では見ることが出来ません。
by ヒロノミンV (2014-02-07 23:52) 

木曽のあばら屋

こんにちは。
CDがすべて廃盤!
こりゃ買ったCD、プレミアがつくかも・・・
などど不純なことを考えている木曽のあばら屋です。

曲自体は、決してレベル低くないと私には思えるんですよね。
曲がつまらなければ、どんなに感動のストーリーをまぶしても、
あっという間にフェイド・アウトしていたはずです。
(そういえば「大江光」という「奇跡の作曲家」がかつていました・・・って今もいるのかな?)

ともかく、作品自体にある種の力があることは否定できないように思います。
真の作曲者になまじっか才能があったせいで、
当初の予想より巨大なプロジェクトに勝手に成長し、
エセ音楽プロデューサー・佐村河内氏の手に余ってしまった、というところでしょうか。

真の作曲者の方、かなりの力量の持ち主なのではないかと。
    ↓
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905

生徒からも好かれているみたい。
    ↓
http://matome.naver.jp/odai/2139168570125226701
by 木曽のあばら屋 (2014-02-09 18:13) 

ヒロノミンV

>木曽のあばら屋さん

>ともかく、作品自体にある種の力があることは否定できないように思います。
 皮肉なことに、そうなんですよね・・・。現代作曲家としては前人未到の領域に踏み込んでいく使命があるので本名では恥ずかしくて発表できない一方で、自分の名前では発表できないが、依頼によって作曲した楽曲が結果として多くの人に受け入れられたことで、密かなやりがいも感じてらっしゃたのかもしれません。
 S氏の書いた「設計図?」らしきものを見て、個人的には「ああ、こういう中二病的な妄想が本当に具現化したら、そら面白いよな」と(不謹慎ながら)思いましたし。
 ただ、S氏の場合は、ロス疑惑のM氏や、偽IPS研究者のM氏と同じく、病的なものを感じます。
 真の作曲者の方の今後のご活躍を祈りたいところですが、僕のような一般大衆が理解できるような作品というのは、もう世に出てこないのでしょうね。
by ヒロノミンV (2014-02-09 23:37) 

kei

すみません。
友達から指揮者の大野和士さんと作曲家の細川俊夫さんの最近の言葉をコピーしたメールがお昼過ぎに回って来ました。原文には当たってませんけど信頼できる友達なんで嘘はないと思います。
権威を笠に着るなと言われるかもしれませんが、大野さんも細川さんも物凄くいい事言っておられ揺るぎない正論かなと思いました。私も反省した所もありますし修正しなければなと思いました。
こんなビッグネームの2人がもっと早く言われていたら良かったのになと思いますが、どうなるか見守っておられて、日本では解決しそうにないから介入してこられたのかもしれません。
ちなみに、事件発覚前には、コンサートは東北とかのローカルを除いては、結構空席が出来てたそうです。動員の招待券が出てたとかの話もあったようです。既に人気も下火になって来てたんだと思います。すみませんm(_ _)m
by kei (2014-02-13 14:58) 

ヒロノミンV

>kei様
 細川俊夫さんの発言は目にしておりませんが、大野さん(江川紹子さんとのやりとり)の発言は読みました。
 確かに言っておられることは正論ですし、海外にしっかりとした活動基盤を持っておられる大野氏だからこそ、ここまで核心を突いた指摘が出来るのだと思います。
 大野氏の発言の中に、ヨーロッパでの取り組みが紹介されていましたが、日本国内でも、例えば、大阪における大阪クラシックや、大阪城星空コンサート(大植英次&大阪フィル)や、仙台クラシックフェスティバルなど、本物の音楽を、より多くの人に届けるために努力されている事例が沢山あります。そういう地道な努力が実る日が来ることを願っています。
 この話題はとりあえず私としてはこれで終わりにしたいと思っています。ありがとうございました。
by ヒロノミンV (2014-02-13 23:41) 

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