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日本センチュリー響 いずみ定期No.33 飯森範親指揮 Vc:ヨハネス・モーザー [コンサート感想]

日本センチュリー交響楽団 いずみホール定期演奏会 No.33 ハイドンマラソン

ハイドン/交響曲第2番ハ長調
 〃  /チェロ協奏曲第1番ハ長調
 〃  /交響曲第50番ハ長調
 〃  /交響曲第88番ト長調「V字」

指揮:飯森範親
チェロ:ヨハネス・モーザー
コンサートマスター:松浦奈々

2016年12月9日 いずみホール

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 またまた来てしまいましたハイドン・マラソン。これで3回連続?関西地方の外からこれだけ通っているのって僕ぐらいじゃないかしら(爆)
 それもこれも、センチュリーのハイドン演奏がとにかく魅力があるから。難しいことを考えずに黙って座席に座っていればよい。極上のアンサンブルが極上のいずみホールの空間こだまし、頭の上から降り注ぐ。そして、ハイドンの天才的なアイデア・オーケストレーション・アーティキュレーションが、その愉悦を頂点まで導いてくれます。時間が短いからトイレの心配とかしなくてもゆったりとした気分で席に就ける。最高の2時間なんですよね。

  しかし今日のハイライトはヨハネス・モーザーのチェロ協奏曲だったかも知れません。大原美術館のギャラリーコンサートで、その才能を一度は耳にしたはずだったんですが、いやーすごかったですねえ。第3楽章なんてオーケストラに向かって挑発する挑発する、でもセンチュリーが見事に応えて(モーザーの挑発を受けてたった、松浦コンサートミストレスはじめ、センチュリーの楽団員さんの楽しそうなこと!)、これぞ生演奏の醍醐味、室内合奏だんの醍醐味、協奏曲の醍醐味でした。会場のボルテージの上がりっぷりは、ジャズの即興演奏のライブのような雰囲気でした。「大阪にセンチュリー有り!」を存分に実感しました。

 今回は最初期と中期、最後に後期の交響曲をプログラミング。2番はエステルハージ家に仕える前の1757年~59年の作品(一説には1761年作とも)、チェロ協奏曲は1761年の作曲、エステルハージ家に雇われた直後の作品。50番は1773年作曲で、そのころには同家の宮廷楽長に出世。88番は少し時代が飛んで1787年の作曲で、エステルハージ家時代最晩年の作品。ハイドン以外の作曲家で、同時期の曲と歴史上の出来事を並べてみると・・・

○2番は20代後半。1759年に亡くなったヘンデルはすでに1740年代には作曲のピークを過ぎていたし、大バッハの息子:C.P.Eバッハやグルックが活躍していた頃だが、独立した交響曲は書いておらず、オペラやオラトリオの中での「シンフォニア」というバロックの形式を守っている。1757年にプラッシーの戦いが、大陸では七年戦争の真っ最中で、イギリスの覇権が確立されつつある時代です。

○50番は41歳。モーツァルトがザルツブルグの大司教に反旗を翻して出て行く時期。ウィーンでは18歳年下で交流を深めていたサリエリが活躍。7年戦争で急速に力をつけたプロイセンとロシアによるポーランド分割(第1次)、アメリカ独立の引き金となったボストン茶会事件。世俗的・宗教的権威がまだま強力だったが、新しい時代への萌芽が見られる、そんな雰囲気か。

○88番は55歳、モーツァルトは「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」といった後世に残る傑作群を作曲中。両者の交流も盛んでいわゆる「ハイドン・セット」の献呈も受けている。その31歳のモーツァルトに16歳のベートーヴェンが会いに行っている。時代はフランス革命前夜の静けさ、しかしマグマに突き動かされるように熱気を帯びていた時代。

 なんでこの年代を整理したかというと、前半の2曲と55番、88番に行くにしたがって、楽曲の内容が見事に変わっていっているのを、今回のコンサートで実感したからです。特に、88番の演奏が始まった時の響 に「これは、もう・・・新しい時代の花が開きかけている!」と驚いたんですよ。ベートーヴェン以後の楽曲が溢れている時代に生きる自分は、ハイドンの104曲の作品群は「どれも似たようなもの」としか感じていなかった。このシリーズ3回目にして、ハイドンほど時代の激流に対応し、絶えず変化していった作曲家は居ない、との感想を持ちました。

 そしてハイドンの交響曲を聴くと、シンフォニーのルーツがわかる。ハイドンが交響曲を自らの創作活動の柱の一つに据えようとしていた時代は、まだ同時代の作曲家はオペラやオラトリオに「シンフォニア」の形で管弦楽曲を置いていたに過ぎない。自然、「この交響曲を人々に楽しんでもらうために、いかに楽しめる『仕掛け』を入れていくか?」ということを考えたに違いない。
 その中で色々な試行錯誤があり、その試行錯誤が後世のシンフォニストに受け継がれる。50番の冒頭を聴いたとき。「これはモーツァルトの交響曲34番が始まったんじゃ無いか?」としか思えなかった。作曲年代は当然にハイドンの方が早い。モーツァルトはほとんどパクリすれすれの線を狙いながら、この50番の冒頭のアイデアを取り入れた。それだけハイドンの独創性と、その創作の有用性の証左でしょう。

 センチュリーの演奏。今回も好調を維持していた。いや「好調」という言葉を使うのは失礼か。センチュリーらしい極めてハイレベルで品格の高い演奏でした。これぞ、まさに大阪が生んだ格調高いセンチュリー・サウンドです。
 編成は第2番とチェロ協奏曲、そして第50番はいつもの6型対向配置。1vn6→vc3→va4→2Vn6、コントラバスはオルガンの真下に2本。88番は8型に増員。

 第2番の第1音が響いた瞬間からため息が出る(前回も同じことを書いたような気がしますが(笑)。ときおりヴィヴラートを抑えめでピュアトーンを響かせながら、極上のバランスで整った音楽が展開されていく。それにしてもこの曲が交響曲第『2』番とは!と驚いていたら、ハイドンの交響曲の附番は必ずしも作曲順とは限らないとのこと。だとしても初期の作品であることには違いが無く。優美なモチーフがしっかりとした構成の中に息づいていく。老獪さすら感じさせるソツの無い曲でした。
 2曲目のチェロ協奏曲は非常にロマンティックな旋律が魅力。モデラートで心地よい速さで奏でられる快活な第1楽章。ロマンチックな第2楽章。そして、第3楽章はチェロの超絶技巧(解説には「18世紀中ごろとしては、破天荒なほどの技巧が駆使されている」との記述)に合いの手を入れるように、オーケストラからも仕掛けられるチェロ独奏付き合奏協奏曲のようになっている。
 冒頭でも述べた通り、ソリスト良し!オーケストラ良し!の痛快な名演!一つ文句を言わせていただくと、「曲が短すぎるがな!」ということ、こんな幸せな時間はもう10分ぐらいは続いて欲しい。心底そう感じた見事な協奏曲でした。

 3曲目の50番は、何かの式典がはじまりそうな華麗な冒頭に始まり、旋律が法則性を持って幾何学的に進行していく、あの折り目正しいハイドンの音楽が展開していく。楽章構成もアダージョ→アレグロの第1楽章、アンダンテの第2楽章、メヌエットの第3楽章、プレストの最終楽章。既に交響曲の形が完成されている。それでいて、第3楽章の中間部では弦のトップ同士の室内楽的な掛け合いがあったり、バロック時代の残り香もある。センチュリーの演奏は軽快で贅肉の全くない引き締まったサウンドで、それでありながら音に艶と独特の輝きがある。これは、本当に見事な音だと思う。弦や木管だけでなく、トランペットの祝祭的な響きにも酔いしれる。

 4曲目の88番は、これは編成を2人づつ増やしたことで、華やかさが増した。これまでオーソドックスな指揮だった飯森さんが、この曲から結構緩急をつけはじめるんですよね。それによって、この曲がバロックの時代から解き放たれて、古典派も通り越して、ロマン派の薫りすら漂っていたんです。ハイドンが時々使う休止は和音の美しさを、ホールの残響を使って聴衆に聴かせるという仕掛けであることが解る。これってブルックナーの手法ですよね。第1楽章の対位法を駆使したモチーフの展開のさせ方は、明らかにベートーヴェンを経由してドイツ・ロマン派の作曲家に受け継がれていく。そしてその華やかな展開部はセンチュリーの緻密なアンサンブルで見事に表現されていく。いやー気持ちええ~、ホンマに気持ちのええ時間。こんな理屈抜きで気持ちのいい音楽を、年に4回も聴ける大阪の人は幸せや。

 「お前、今更何を言うとるねん!」と言われそうですが、飯森&センチュリーは、このスタイルを守りつつ、104曲すべて違う表情をホンマニ描き分けるんやなあ・・・と、当たり前のことに、ただただ驚嘆しています。今回は、88番が始まった時に、時代のドラスティックな転換点が見えた。「時代が変わった」ことを感じさせてくれ、近代ヨーロッパの歴史上も非常に重要な時間を長生きした、ハイドンの人生を感じさせてくれました
 そして1曲の中に秘められた物語(楽章)の描き分け。この88番の第1楽章の華やかさ、第2楽章の刹那さ、宮廷音楽というより民俗音楽に近い第3楽章、ほとんどロマン派の…シューマンの交響曲の最終楽章のような疾走感と起伏のある第4楽章。なんとエッセンスの多様であること、そしてセンチュリーの表現の引き出しの多様であることか。
 
 ハイドン104曲のシンフォニーを演奏する企画が今回も含めて8割の近くの客席を埋め続けるなんて、東京か大阪でしか出来ないし、センチュリーのサウンドはこれぞ品格のある大大阪時代の音楽。大阪を現在牛耳る政治家さんたちは、お金が右から左に動くだけの「カジノ」を中心とした、金持ちが有り余る金をとことん非生産的な事に使う「IRの誘致」に躍起だけれども、いつか、足元にある財産に気づく日が来るでしょうか?例えば、このセンチュリーのサウンド。こんな音はなかなか聴けませんよ。前日の大フィルだって70年間培ってきた独自のサウンドはまだ錆び付いてなんかない。こうした、「税金を投入する価値無し!」とされた財産が、その価値が再発見されんことを祈ります。


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