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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その6:岡山を文化デフレ社会から、文化芸術資本が循環する社会へ) [オーケストラ研究]

 これまでのエントリーは、できるだけ先入観を排して、データを読み解くことを重視してきました。今回の記事は、大部分が筆者の主観によるものであることを、はじめに断っておきます。
 今回からいよいよオーケストラは育むための、岡山という街の『土壌』について考えていきたいと思います。
地方都市でオーケストラが生き残っていくためには、色々な政策的テクニック論があると思いますが、このシリーズを打っていて、「これはどうしても述べておきたい」と思うに至ったことを今回は触れていこうと思っています。

 これまでのエントリーで、オーケストラが「独立採算」で存立可能なのは莫大な「富の集積」がある東京圏のみ。地方においてオーケストラを維持するためには多額の「安定財源」が必要で、その多くが自治体による公的資金、それにプラスして地元財界を中心とした民間の資金援助が必須であることを述べた。つまりはその街の「総合力」が試されるわけで、岡山フィルの今後を考えるということは、その本拠を置く岡山という街そのものについて考えることにも繋がっていく。

 今回のエントリーのキーワードは、「文化資本デフレ社会」からの脱却と「文化・芸術資本が循環する社会」へ。


芸術家が集まらない街:岡山


 岡山市の文化芸術振興ビジョンによると、市の全就業者数に占める芸術家の割合は、全国平均の0.63%を下回る0.53%で、全国平均を下回り政令指定都市としてはかなりさみしい数字(下位グループに位置)であり、文化芸術のマンパワーが決定的に不足している状況が見て取れる。

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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33」より
 岡山で芸術家の割合が低迷しているのはなぜか?芸術作品に対する需要の不足、芸術家を支えるマネジメントや人的ネットワークの不足など、様々な問題点が指摘されているが、私がこの街で四半世紀近く生活してきたうえで「これでは芸術家やクリエイターが育たない」と感じるはっきりとした原因があると思っている。それは芸術家やクリエイターの仕事に対する正当な対価が払われる文化・土壌が少ない、あるいはそうした意識が弱い、『文化資本デフレ社会』であるということだ。

文化資本デフレ社会:岡山の問題点

 この『文化資本デフレ社会』は、岡山に限ったことではなく、地方都市の大部分が抱えている現象だと思う。
 岡山を含む多くの地方都市と、大都市・文化都市と言われる街との大きな違いは、人の手が入ったクオリティの高い仕事への対価に対する態度の違いである。大都市・文化都市には値段が高いものに対して、どれだけの技術や優れたデザインが盛り込まれているか?それを推し量る審美眼を持った人(目利き)が多く、本当にいいものなら少々高くても売れていく。
 しかし岡山も含めた地方の中小都市の現状を見ると、デザインやマーケティングといった付加価値を生み出すクラスターの職業人が不足しており、岡山発のデザインやアイデアに対して十分な対価が支払われるマーケットが育っていない。
 その一方で「東京で話題になっている・流行っている」モノ・サービスや、東京から派遣されたプロモーターが手掛けるイベントに関しては、少々高くても売れていく。地元のクリエイター達が渾身に作り込んだものが売れず、地元経済がデフレ化する一方で、東京資本のモノやサービスは活発な取引がある。結果、売上金はどんどん東京へ流出する。
文化デフレ社会=悪貨が良貨を駆逐する社会の犯人

 岡山が本気で「芸術・文化都市」を目指し、「岡山」のブランディングを向上しようと思っているのなら(岡山の「ブランド向上のために」、文化・芸術に力を入れる、という考え方は飛躍があるのだが、それにつてはのちほど・・・)、この地域内で文化・芸術資本の循環が充分でない現状について議論されるべきだろうと思う。

 話は逸れるが、しかし文化資本デフレを助長する傾向は岡山市や岡山県など公共セクターが発注する仕事にも顕著に見られる。単価が数%高いだけで、優れたデザインや企画が生き残れず、安かろう悪かろうが生き残ってしまう。
 発注者が価格以外の評価基準(デザイン性や芸術性)で良質な仕事をするクリエイターと契約する判断ができるようになれば、交通の要衝に位置するこの岡山でクリエイターの小さなクラスターを形作っていくことは可能なのではないだろうか。

 私は、公共セクターが財政難を理由に、クリエイターや芸術家の生活への影響を鑑みること無く、芸術や文化への予算を容赦なく削減し、芸術家やクリエイター達の「作品」への報酬や対価を買い叩いている話を耳にし、当事者の嘆きもよく聞いてきた。

 一方で、そうした公共セクターだが、東京資本の文化マネジメント組織や代理店に対しては、あっさりと財布の口を開いてしまう。本来であれば地元で頑張っているクリエイターや芸術家の中で回転することができる資金を、東京にかっさらわれているのだ。

そのモノが持つ価値は、「東京で話題になっていること」ではない

 岡山という街にクリエイター・芸術家が集まり、彼らの創作活動や演奏活動が街の活力となっていくためには、まずは「技術と芸の粋を集めた作品・演奏」に対して、きちんと価値を評価し、身銭を切ってそれらを手に入れる、体験する、という文化が育つことが必要不可欠だと思う。
 一人一人が目利きとして育っていく無しに、岡山の土壌から良質なモノが続々と生まれ、芸術家が集まる街になることは決してないだろうと思う。

 岡山フィルについて言うと、例えば、スクールコンサートのギャランティとして県や市から出ているお金は正当な価格なのか?現在でも岡山フィルの演奏技術は向上しているし、首席奏者が整備されれば演奏水準も上がる。当然、出演料も値上げされるべきだろう。
 確かに東京のクリエイターや芸術家に比べると、まだまだ岡山で作られる作品には物足りない部分もあるかも知れないが、最近の岡山フィルの定期演奏会での演奏のように、キラリと光るものだってある。
 オーケストラ演奏を例に取れば、確かにN響や読売日響の個々の団員の技量と岡山フィルの団員の技量に差があるのは認めざるを得ない。会社経営を例にとっても、給料と待遇の厚い企業に(個人としての)能力の高い人材が集まりやすい。
 一方で、これも会社経営と同じく、優秀な社員をかき集めれば業績が残せるのかというと、これはまた別の話だろう。自分の仕事が評価され、経営者が個々人の能力を伸ばせるようなシステムを作り、チームワークが良い会社のほうが業績を伸ばせる、といった事例は掃いて捨てるほど存在する。
 オーケストラも同じであるといえる。超一流の楽団のコンサートに、さほど感動を覚えないことはザラにあるし、地方都市において地元のプロ・オーケストラの演奏から、筆舌に尽くしがたい感動や感銘を得られることもある。
 話は逸れるが、文化芸術資本の地域循環やクリエイターへの対価という観点で一つ例を挙げる。
 京都に「門掃き」という習慣がある。早朝に自分の家や店の前の道を掃除する習慣のことだが、この門掃きに使われる箒を専門に売っている店が京都市内に存在する。1本1万円近い箒がコンスタントに売れていくそうだ。京都の人は本心を隠して「ホームセンターで売ってる安物の箒なんか、恥ずかしくて門掃きに使われへんわ」と理由を述べるのだが、本当のところは、やはり値段の高い箒は長持ちで掃き心地もが良く、塵が飛び跳ねにくいなど、機能面でも優れている。箒一本についても目利きを利かせて、朝一番に行う仕事を気持ちよく行うために「1万円は払うても惜しない」、それが京都の人々の本心なのだろうと思う。
 京都には、こうした専門店が何百年と続いている。扇子専門店から月見の時期だけに使う三方の専門店、茶筒の専門店なんて言うのもある。京都の骨董屋の目利きも日本一だと聞く。モノの価値を見る目を大事にし、ややもすればそうした素養の無い人は軽蔑さえ受けてしまう。そんな京都は、文化資本デフレとは無縁の街に見える。 
  

『「岡山都市ブランド」を育てるために、オーケストラを育てる、という発想への違和感

 岡山市の様々なビジョンにかかれている。「岡山の都市ブランド向上のために」オーケストラを育てるという発想
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 以前には無い発想であったから、私は一定の評価はをしたのだが、よくよく考えてみるとこの発想には、どうしても違和感が付きまとう。その違和感は「異性にモテたいから流行の服を買う」という発想に通じる違和感と疑問。その間に数段階飛ばしている大事なものがあるのではないか?都市ブランドの向上って、そんなに簡単なものなのか?
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 この図を見てみると、違和感の正体がはっきりする。岡山市は文化芸術が「岡山が人を惹きつける 多様な価値を提供」し、すぐに「都市のイメージアップ」につながると考えているようだ。そんなに簡単なわけはない。    
 文化・芸術が都市のイメージアップに貢献するためには、文化・芸術に関する行政・市民の地道な努力と、大胆な「投資」があって、(シェレンベルガーのような)プロのアーティストを呼び込み、例えば音楽では、岡山フィルが全国でも評価されるような楽団になり、しかし、そのためには街の人々が一流の芸術へアクセスし、人々もそれに対して対価を払う土壌ができ、文化資本が循環する社会になって、「新たな価値を創造」し「多様な芸術家などの人材が集ま」って、その結果、もしかしたら都市のイメージがアップする、かもしれない。実際には、途方もないプロセスを間に挟んでこそ起こることだろう。
 この表からは、単に「岡山フィル」というオーケストラが、現状のままでも都市のイメージアップにつながっていくような短絡的な発想をしているように感じる。現在、岡山という街が陥っている「文化資本デフレ社会」に対する現状認識すらないのだ。
 岡山という街がオーケストラを抱えることによって得られる、真の意味とは何なのか?という問いとしては、違和感を感じざるをえない。

 オーケストラは、お金がかかる。楽器演奏と音楽表現に文字通り人生を賭けた50名もの職人集団である。お金がかかるのは当然。岡山が「文化資本デフレ社会」から脱却するために、岡山の人々の価値観を転換し、最高レベルの技と芸術性に対し、正当な対価を払うという豊かな文化都市へ舵を切りなおすために、オーケストラを育てるという「敢えて困難な事業に立ち向かう」ことに意義があるのだと思う。

 オーケストラがあることによる数値的な効果の分析は、次々回のエントリーに譲るとして、その機能面での利点は、社会・文化資本としてとても優れた機能を有することだと思う。オーケストラとしての再現芸術を市民に聴く機会を与え、シェレンベルガーのような「本物」の芸術を持った人々との交流の機会を与えることが出来る。個々の奏者もプロの音楽家として、ソリストから室内楽まで様々な需要に対応した音楽演奏を提供でき、指導者として子供の音楽体験を導くことも出来る。オペラやミュージカル、バレエ、演劇、映画に至るまで、生演奏で伴奏を行うことも出来る。今後はジャズやポピュラー音楽のアーティストとの共演も増えていくだろう。このように、オーケストラは万能の文化インフラなのだ。
 岡山市内に限らず、学校や病院、福祉施設にも出向いていける機動性もあるし、大阪や東京、あるいは海外に出て岡山のアピールのための演奏旅行に行くことも出来る。
 社会文化資本としてのオーケストラの役割は、今後、いっそう重要性を増してくる。オーケストラの「場」を作ることが出来る機能は、人口減少社会の行きつく先の「コミュニティの再編」局面での重要な役割を果たすだろう。


「本物」の体験は、自然体験だけでは足りない

 これは平田オリザさんの主張されていることのなのだが、文化資本、とりわけ「値打ちがあるものかどうか」を見分けるセンスや立ち居振る舞いなどの文化資本は、おおよそ20歳ぐらいまでに決定されるそうだ。子供のころの読書体験が言語的資本を培っていくのと同じように、この文化資本を培うためには、「本物」に多く触れていく、これ以外に方法は無い。「本物」に多く触れることで、偽物を直感的に見分ける能力が育ち、国際社会に出ていった時の自分自身のアイデンティティの確立にも資する。東京や関西圏など大都市には本物の文化資本に触れる機会が多く、岡山のような地方都市の子供たちは圧倒的に不利な状況に置かれている。

 『いやいや、岡山には自然がある。自然の中でも「本物」の体験ができる』という意見があるかも知れない。確かに、自然の中でも体験も、「本物の体験」だろう、そこに異論の余地はない。しかい、関西で生まれ育ってきた私が断言するのは、都市部でも「本物の自然体験」は豊富に出来るということだ。都市部では鉄道などの公共交通が発達しているので、例えば私の実家があるところは渓流遊びや滝遊びができるようなところ(六甲山系)だったが、休日には関西一円からそうした自然を求めてファミリー層が集まって来ていた。私の実家から神戸や大阪への通勤時間は1時間を切っていたから、昼間は渓流遊びをしている子供が、夜には劇団四季を見たり、大フィルのコンサートに行ったり、ということが日常的に出来る(実際は、そんなに頻繁には連れて行ってもらっていないが、関西に住んでいたからこそ「生」の様々な舞台芸術を体験できたことは事実だ)。
 もちろん都心部在住では本物の自然体験は量的には少なくなるかもしれないが、交通機関が発達した都市圏の住民は、岡山の人々よりもアクティブなのは間違いないと思う。関西だと姫路から琵琶湖まで身近なレジャーを楽しめる、「明日は琵琶湖に行こうか?姫路城に行こうか?」という行動範囲で『本物体験』ができる。
 閑話休題
 こうした地方都市の子供にとって不利な状況は、オーケストラという窓口を持てば、19世紀以来の近代芸術最高の再現芸術にアクセスする手段を保有し、シェレンベルガーに代表される世界的な「本物」のアーティストと音楽を通じての会話体験によって、「本物」のシャワーを子供たちに浴びせることも可能になる。


プロの技を披露する人、プロを目指す人、聴く人見る人、応援する人、それらが岡山という地域の中で循環する社会

 私も含めた働き盛り世代は本当に忙しい。少ない余暇時間も、仕事のためのスキルアップのために費やされ、美術館に行ったりオーケストラをはじめとする舞台芸術を観たり、プロスポーツの観戦にいったりする時間が取れない。そんな人がほとんどではないだろうか?
 そして、岡山は都市としての吸引力が弱く、中心市街地で働いている人口が少ない。クラシックのコンサートでは土日はそこそこ観客が入るのに、平日の18:30開演のコンサートは大概がガラガラである。僕は今まで「そんな時間に設定している主催者が悪い」と思ってきたが、「働き方改革」が叫ばれる今、「18:30開演のコンサートに、たまにでも行けないような働き方こそが変わっていくべきなのではないか?」と考えを改めた。
 日本人はこれほどに働いているのに、労働生産性は低いままで、国際競争力も長期的には低下の一途をたどっている。「規格大量生産の時代は終わった。これからは付加価値を生み出し、高いモノでも買ってもらえる製品・サービスを売っていくことが必要だ」と、20年前から言われているが、過重労働で平日夜のコンサートにも行けないような働き方で、付加価値が生み出せるだろうか?
 岡山ではJ1リーグへの昇格を目指す、ファジアーノ岡山への応援熱が盛り上がっている。私の会社ではファジの試合がある水曜日はなるべく定時(17:30)で帰ろう、という文化が育ち始めている。水曜日にはユニフォームやタオルを持って出勤してくる人も見えるようになった。
 ファジアーノがJ1リーグに昇格してくれれば、これほどうれしいことは無いが、僕が一番良かったと思うのは、ファジアーノがこうした岡山の「アフター5」の文化を変えつつあることだ。試合を見に行く人は、残業することよりも、ファジのサポーターとして観戦に行く時間に価値を置いている、それに加え周囲の人も、ファジのサポーターの観戦に費やす時間の価値を認め、応援してスタジアムに送り出している。社会・文化資本が地域の中で尊重され、循環し始めていると感じる。


目指すのは、「文化デフレ社会」から脱却し、『文化・芸術資本の循環する社会』を創ること。
 このように市民の間にプロのスポーツチームを応援する、あるいはプロの芸術家の技に触れる、プロフェッショナル達が尊敬され、作品やパフォーマンスが正当に評価され、創作が喚起され、人々の居場所を作り、感動を呼び起こし、正当に評価された対価がプロフェッショナルの間に還流するという、『文化・芸術の循環する社会」を築く、それが岡山の街の目指すべき姿である。その大きな波が起これば、岡山フィルの地位向上や資金の問題の解決、その結果としての岡山独自のオーケストラ文化の隆盛と楽団の実力向上への道が、おぼろげながら見えて来る。

 少し脱線するが岡山フィルの定期演奏会で毎回募集する「市民モニター」と称するコンサートのタダ券の配布。これもやめるべきだろう。1000円でもいいから身銭を切ってもらうべきなのだ。タダで聞きに来た客が(1階席の四隅の席が充てられるのですぐに分かる)コンサートが始まってまもなく、演奏の最中に席を立って扉を開けて帰ってしまうという現象を何度も目撃しているが、これは「タダで聴きに来ている行為そのものに駆動された行動」であるといえる。人がお金を払うという行為には、購入する物に対する敬意も含まれており、無償のモノには価値を見いだすことは心理的に難しいからだ。

岡山のロス・ジェネ世代が生み出してきた、「衣」「食」「住」の「本物志向」
 芸術・文化面では、まだまだこれからだが、ファジアーノに続いて「衣」「食」や「住」の消費社会では流れは変わってきている。2000年代後半ごろから、都心回帰へと人々の住まい方が変化したのと同時に、1970~80年代生まれの、バブル崩壊後に社会人になった、いわゆる「ロス・ジェネ」 世代を中心とした「本物志向」の消費に牽引され、空洞化していた市街地中心部や「役割を終えた街」の筈だった問屋町に雑貨やインテリア、ファッション関係の店舗が増え、職人の技術や仕事の価値を認めようという動きが拡がってきている。
 この世代はバブルまでの大量消費社会の洗礼を浴びておらず、青年期に価値観の180度転換を迫られた「バブル崩壊」「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」を見てきた。流行に対して懐疑的で、自分が本当に気に入ったものしか信じないという消費傾向を持つ。岡山で言えば、アカセ木工の家具がこの世代に売れ、油亀を始めとしたアートスペースが活気づいているのは、この世代がこうしたこだわり消費を牽引しているからだと思われる。

 そこに、2011年の震災以後の、東日本を中心とした移住者の急増や、ロス・ジェネ世代が消費者の中心としてイニシアチブを握る時代に入り(同時に岡山フィルの首席指揮者にシェレンベルガーが就任し、岡山フィルの快進撃が始まった時期とも重なる)、少しづつではあるが、「価値のあるものに対してはしっかり対価を払う」あるいは、価値があるかどうか自分では分からないものに対しても、「その価値が分かるように感性を磨きたい」という風に考える人々が急速に増えてきたと感じる。

 しかし、課題がないわけでは無い。

 これらの世代が読んでいる「オセラ」という雑誌がある。
オセラ2018年3-4月号 92号

オセラ2018年3-4月号 92号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ビザビ
  • 発売日: 2018/02/25
  • メディア: 雑誌


 「おとな、暮らし、ときどきプレミアム」を合言葉に、上質な大人のライフスタイルを提案している雑誌で、いわゆる従来の「タウン情報誌」から一線を画した誌面になっている。
 しかし、この雑誌には音楽文化、美術、アートなどの芸術・文化に関する記事が極めて少ない(ほとんど見たことがない)。
 雑誌の誌面は、その雑誌の読者層の鏡だ。岡山の「本物」消費を牽引している世代にとっても、芸術やアートを消費するハードルはまだまだ高いのだと思うが、やはり心の養分となる芸術・アートへの消費の高まりがなければ、なんとなく外側だけの本物志向に陥ってしまうのではないだろうか。「文化・芸術の循環する社会」への移行は、この世代の消費の広がりが不可欠である。 


『後楽園』を受け継いできた岡山だからこそ、「本物」を創造することは可能

 岡山フィルが、そんな文化資本の循環する社会の中で、次の世代に受け継がれていく、そんな姿が僕の夢だ。受け継いでゆく文化があるというのは素晴らしいことだ。自分たちが大事に育ててきたものが次世代に引き継がれ、自分が死んだ後も脈々と生き続ける。街の人々の精神安定作用にどれほど貢献することだろうか。岡山には、天下の名勝:後楽園を受け継いできた歴史があるのだ。


 次に、「文化・芸術の循環型社会」の中核となる、岡山フィル自身に必要なものは何か?について考えてみようと思う。


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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その5:安定財源のもたらす圧倒的な果実) [オーケストラ研究]

 このシリーズ記事、4か月ほど更新をサボっていましたが、先日、N響のコンサートを聞いたことにも触発されて、今回は第5回ということで「安定財源のもたらす圧倒的な果実」を見ていきます。
 第4回までのエントリーで、バロック・古典派からロマン派の主要な楽曲をカバーできるサイズ=4管編成のオーケストラを維持するためには、事業規模10億円が一つのラインであり、東京以外の地方都市において4管編成を維持しているオーケストラは、数億円規模の地方自治体支援により支えられていること。老舗の大阪フィルが地方自治体支援という屋台骨を失ったことで、大都市オーケストラの標準サイズである4管編成はおろか、3管編成すらも維持が厳しい状況に陥っていることなど、オーケストラ経営には安定的な財源が必須であることが分かった。
 民間支援の可能性が大きい大阪のような大都市圏でオーケストラでさえも、公的支援無しでは2管編成の維持がやっとの状態になってしまう。大阪では新自由主義的な競争原理が持ち込まれ、それは一定の合理性を有するため、市民の大勢に受け入れられた。しかし、結果は大都市としての品格・風格を体現し日本を代表するオーケストラでもあった大フィルの経営的な凋落を招き、『損益分岐点』である2管編成のオーケストラへと縮小均衡、その結果、将来的には大阪では同じようなサイズのオーケストラ4つがせめぎ合うという構図になることを予想した。3~4管編成の維持には莫大な初期コスト(=人件費)がかかる以上、致し方のない帰結と言える。

 今回は「安定した財源」を持つオーケストラの経営数値を見てみようと思う。私が注目したのはオーケストラ楽曲のほとんどすべてのレパートリーをカバーできる規模である4管編成のオーケストラ。
 ここで取り上げるのは日本を代表するオーケストラ、誰もが知っている「N響」こと、NHK交響楽団だ。

 言うまでも無く、N響はNHKからの補助金が主な財源となっているが、その額はなんと14億円!!(2015年度実績)
 資金難に瀕する大フィルなどからすると「そのうち1億円くらいわけてくれてくれい!」といいたくなる額だ。

 しかし、N響の財務面での強さはそれだけではない。経営数値をもっと詳しく見ていくと、N響がNHKからの補助金に依存しているだけのオーケストラでは無いことが分かる
 2015年度の演奏収入ランキング

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 N響は演奏収入の面でも東京フィルに次いで2位。もう少し掘り下げて、演奏収入を楽団員数で割った数値、すなわち楽団員一人当たりの収益力を見てみると、これも3位に付けている。

楽団員一人当たりの収益力(2015年)
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 この数値にはNHKからの支援は入っていないため、純粋にコンサートだけでどのぐらい効率的に稼げているかがわかる。演奏収入では1位だった東京フィルは、楽団員一人当たりに直すと、それほど効率的には稼げていない

 もう一つ民間からの支援を見てみよう。

民間支援ランキング(2015年度)
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 1位の読響は経営母体の読売新聞社からの資金が計上されているので別格としても、ここでもN響は3位の位置につけている。そういえば今月のN響の中国地方ツアーも、エネルギー関連企業がスポンサーになっていた。

 安定したNHKからの14億円もの財源で演奏能力の向上と優秀な奏者を採用し、国内随一の指揮者とソリストによる魅力的なプログラムにより、国内屈指の収益を叩き出し、かつ公共放送による露出の高さに加え、伝統とブランド力を備える。潤沢で安定した財源が投資を呼び、スポンサーも続々と集まってくる、いわば「総取り」経営が見て取れる。
 読響や都響など、財源が安定している他の在東京オーケストラも同じような状況だといえるだろう。

 いわゆる「御三家」のオーケストラだけでなく、名古屋フィル(4位)、札響(9位)や広響(10位)、京響(13位)、群響(14位)などの地方都市オーケストラも、行政からの補助金だけでは無く、民間資金も積極的に獲得している。
 市民の税金が原資の補助金を投入する過程には、納税者の理解や政治的利害調整が必要であるし、そのプロセスの中でオーケストラに公的資金を投入する意義についての議論は避けて通れない。
 公的支援に頼らない経営が理想なのは間違い無いが、一方で、地方都市では行政が補助金を出すことによってその事業の信用度や文化的投資への決意を見せることで、民間スポンサーも俄然、集まりやすくなる。逆に言えば行政がお金を出さない事業に民間もお金は出せない、というのが現実だろうと思う。

 このようにオーケストラにとって、『安定財源』の確保が経営上極めて重要であることがわかる。今回見てきたN響や大都市のオーケストラの経営数値が明らかにしているように、安定した財源(地方自治体支援など)があれば積極経営にも打って出られるし、民間からの支援も集まりやすくなる。経営の選択肢が増え、相乗効果を生み出していくことで事業規模をさらに拡大していくことが出来る。プアな財政で楽団員に際限の無いプロ根性や反骨心に期待するような経営では、やはり無理が来るのだ。

 第4回で取り上げた大フィルを例に取ると1億7万円の公的補助を出し惜しんだがために、3.7億円と48,000人の経済活動の縮小を招いている。このまま打開策が無ければ中小規模の4つのオーケストラがひしめき、かつての「大フィル」「朝比奈隆」のブランド力がそのまま大阪のブランドやアイデンティティに寄与していた状況を失ってしまうことになる。お金では換算不可能な莫大な損失だ。 

 翻って岡山の状況について考えてみると。岡山市が岡山フィルへの支援を表明しているのは心強いが・・・果たして、見通しはどうなのか?次回以降は岡山フィルの今後について考えてみたいと思います。

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行けなかった岡山フィルの第55回定期のプログラムを貰う [岡山フィル]

 3月11日~12日にかけて、普段の5倍ほどのアクセスを頂きましたが、岡山フィルの第55回定期演奏会には、わたくし、仕事で行っておりません。。。
 この日は私と同業者もかなりの割合で欠席したみたいで(この3月2週目の週末っていうのが、私の居る業界では特異な日・・・なんですよね。私は別種の仕事で欠席でしたが)、ホールの入りが気になりますが・・・
 ネット上での感想を拝見すると、演奏は非常に良かったそうです。
 今日、お彼岸のお供え物を買いに某百貨店(岡山フィル企業会員になったら名前をクレジットするようにします(爆))に行くついでに、シンフォニーホールによって、さらぴんのチケットを見せて当日のプログラムを貰ってきました。
 気になっていたのは、今回の定期演奏会から首席奏者の試用期間が開始されていること。メンバー表を拝見すると、やはり今まで登場なさっていた在東京・関西のオーケストラの助っ人主席の名前が無く、フリーの奏者の名前が多かったです。
 ただし、チェロの首席の松岡さん(都響)、ホルンの久永さん(読響)の名前があるなど、これらのパートはまだ決まっていないか、もしくは首席以外のポジションで参加していた可能性もありますね。
 メンバーの中には、若手の方も居れば、「うそやろ!?」っていうぐらい実績のある方(N響元首席の方や、著名室内楽団体の所属の方)もいらっしゃって、これらの方が岡山フィルの首席として正式に就任すると、これまでと同等の演奏水準は保証されるばかりか、楽団としての一体感が増すことを考えると、もっと良くなっていくのではないか?と期待してしまいますね。

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NHK交響楽団倉敷公演 指揮:ブルニエ Pf:上原彩子 [コンサート感想]

NHK交響楽団 倉敷公演
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番
 ~ 休憩 ~
ドヴォルザーク/交響曲第8番
指揮:ステファン・ブルニエ
ピアノ独奏:上原彩子
コンサートマスター:篠崎史紀
2018年3月10日 倉敷市民会館
 会場はほぼ満席。平日夜の倉敷市民会館を満席にできるのは、このN響ぐらいだろう。さすがの動員力です。
 N響岡山定期消滅後も、なんだかんだいって2年に1回は岡山に来てくれるN響。パーヴォ・ヤルヴィ就任後は、TVで見ていても、実演でもどんどん高みへと昇って行っている感がありましたが、ここ倉敷でも益々充実の演奏を披露してくれた。ソリストの上原さんは、抜群のテクニックと美しい音色、打鍵の多彩さは健在。終演後は物凄い盛り上がり。
 指揮のブルニエは、本場の歌劇場で実績を重ねる本格派。躍動感溢れる音楽が信条のようで、旋律の歌わせ方も巧みで風景が目に見えるような音楽づくり。メロディメイカー:ドヴォルザークのボヘミア愛を見事に表現。大満足のコンサートだった。
(3月16日 追記)
 コンサートから時間が経ってしまいましたが、帰りのJRの中でメモしたデータを頼りに感想を続いて書こうと思います。
 前半のラフマニノフの3番。2年前にバーミンガム市響をバックに河村尚子さんが同じホールで同じ曲を演奏し、強く心に残る演奏を披露してくたが、今回の上原さんも凄い演奏でした。どちらの演奏も甲乙付けがたい、恐ろしくハイレベルな演奏。
 上原さんは、第2楽章などでの繊細で柔らかい表現は、真綿をつかむようなタッチで、光に包まれるような幸せな音を奏でる。その一方で、第1・3楽章の強い打鍵が要求される場面の迫力も、客席で聴いていると気圧されるような迫力があった。特に、第3楽章の後半で1度ギアを上げた瞬間は驚きました。「ラスト・シーンまでには、まだまだ曲が残っているのに、すでにこんなに強い音を出して、最後はどうやって締めくくるのか?!」そう思って聴いていくと、ラストシーンではさらにもう一段ギアを上げた強い打鍵で、N響を向こうに回して大立ち回りを演じた。いやはや、これには本当に参った。
 一方で、上原さんはオケとともに大きな音楽を作って行こうとする志向が強く、指揮者だけで無くコンマスのMAROさんや、第1・2楽章の管楽器と合わせる場面では、その間パートの方を向きながら、一体的に音楽を作っていた。
 N響も冒頭からの弦の翳りのある音から「ハッ」とさせられ、宇賀神さんのファゴットに早くも心をつかまれる。木管はクラリネットもフルートもオーボエも、岡山ではなかなか聴けない見事なソロ・合奏を聴かせ、弦楽器も終始つややかで、上原さんの音とも絶妙に合っていた。
 本当に、聴き応えのあるコンチェルトだった。
 後半はドヴォルザークの交響曲第8番。このところのN響の好調さが感じられる若々しく躍動感あふれる演奏だった。
 岡山にはN響はよく来てくれる方だと思いますが、以前は、確かに文句の付け所の無い、まったく綻びの無い演奏をするんだけれども、なんとなく「管理された演奏」を聴かされるようなところがあった。
 今のN響は、本当に充実していると感じる。クラシック音楽館でも、最近は毎回のようにいい演奏を聴かせてくれているし、いい具合に世代交代が進んで、個々の奏者のモチベーションが極めて高そうだ。ヴァイオリン・ヴィオラ部隊なんて、弓ブチブチ切りながらの躍動感あふれる演奏に、「地方公演でここまでやってくれるんだ」と感激した。
 ブルニエも、さすがに歌劇場で実績のある指揮者。中央ヨーロッパの情景が目の前に浮かんでくるようで、名曲中の名曲の旋律美のうま味を骨の髄まで引き出していく。
 今やザルツブルグ音楽祭にも呼ばれるほど、国際的評価が定着したN響、これぐらいはやって当然かもしれない。同じホールでこれまで聴いて来た、パリ管・RCOやゲヴァントハウス管、これらの超・超一流オーケストラに、テクニックだけでなく音色の美しさなどでも追随してきている感じがあります。ただ1点、物足りない点を挙げると、これらのオーケストラには、トゥッティーの際には座席に体が押し付けられるような圧迫感を感じる様な音の圧力がありました。N響も決して鳴っていないわけでは無い(去年の新日本フィルよりははるかに鳴りが良かった)のですが、やはり世界の超・超一流のオーケストラが奏でる、夢のように美しい音の洪水に身体が押し倒されるような圧倒的な力・・・、この部分が欲しいな、というのが正直な感想です。
 N響の岡山定期演奏会が無くなった当時は、それを惜しむ声が聴かれましたが、4年前のヴァルチュハ&諏訪内晶子、2年前の井上道義との岡山公演など、なかなかの座組でやってきてくれています。中国・四国地方の巡回公演では、岡山は絶対に外せないマーケットなのだろう。ほぼ2年に1回のペースで聴けている印象だ。
 岡山フィルの定期演奏会の回数は増えたし、結果的に岡山のファンにとっては、これで良かったんじゃ無いでしょうか。

 アンコールは、スラヴ舞曲集第2集から第2曲。


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