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岡山芸術交流2013を見て(その3) [展覧会・ミュージアム]

  今日は岡山芸術交流交流について、美術雑誌などで再三言われた「最先端の現代アート」について、思ったことを書いてみたい。

 この芸術交流を象徴する作品の一つにエティエンヌ・ジャンボーの「微積分/石」がある。
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 ロダンの考える人の台座・・・らしいのだが、これについて、アートディレクターの那須太郎さんが、RSKの番組のインタビューの中で、「考える人の、考えている人間がなくなったら、と考えると面白い。もしかしたら人類がいなくなった後かもしれない・・・」ということを仰っていた。
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 他にも、旧福岡醤油建物のエヴァ・ロストロによる「自動制御下」は太平洋を横断する飛行機内の眠っている乗客を3Dスキャンして、VRで見せる作品だったのだが、これが生きてる人間には見えず、海の底へ墜落した飛行機の中に入ったような気持ち悪さがある。

 これらの展示作品に通底するのは、「思弁的実在論」の影響だとする考察がある。思弁的実在論は私もよく意味が分からなくて、自分がよくわからないのに、影響を受けているのかどうかもわからないのだが、フランスの哲学者:カンタン・メイヤスーが提唱し、現代哲学界の論争の中心にある思想なのだ。
いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

  • 作者: 岡本 裕一朗
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2016/09/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 岡本裕一朗さんの「いま世界の哲学者が考えていること」によると、
『人間の思考から独立した「存在」を考えるために、メイヤスーは人類の出現以前の「祖先以前在住」を問題にしたり、人類の消滅以後の「可能な出来事」を想定しています。これらは、「人間から分離可能な世界」として、科学的に考察することが可能でしょう。それなのに「創刊主義」はそのような理解に目を閉ざしてきたのです』
 
 今年の夏ごろにちょうど読んだ本で、この芸術交流の展示を見た後、もう1回読んでもテキストではやっぱりよく解らなかった(笑)
 しかし、一方で思弁的実在論のいろいろなテキストを読んでも意味がわからなかったものを、こうしてアート作品を見て見ると、イメージが湧いてくるというか・・・まあこれも気のせいかも知れないが、自分が生きている時代がどういう時代なのかを感じることが出来たのは事実だ。

 今回の展示内容は、第1回の岡山芸術交流よりもさらに難解で、「インスタ映え」的な鑑賞者へ媚びる要素は皆無だった。「ハードコアな展示」に磨きがかかっていたと思う。確かにミカ・タジマの「ネガティブ・エントロピー」(オリエント美術館の古代オリエント関係の展示に、見事に馴染んでいた)や「ニュー・ヒューマンズ」など、ひと目見て「美」や「面白さ」を感じる展示もあり、そういう作品に出会うと正直ホッとした(笑)

 私が芸術を理解するよすがは、クラシック音楽しか無いので、それに当てはめてみると、海外のオーケストラやアーティストを呼び、ひたすら前衛的な音楽を演奏する音楽祭、クラシック音楽に置き換えるとそんな感じ。今日はシュトックハウゼン、明日はペンデレツキ、来週は少し馴染みやすいかな?と思っても、フィリップ・グラスやジョン・アダムス。そんなプログラムに、全国のコンテンポラリーのファンが大挙して押し寄せる。しかし岡山市民はなかなか着いて来れない・・・。そんな図が浮かぶ。

 クロージングイベントでも議論されたように、全国的に現代アートの芸術祭が乱立する中で、あえて岡山で開催する意義を問いかけ、世界的に評価される芸術祭に育てていくためにこういった尖った路線を突き進んでいるということは理解できるのだが。
 せめて、世界の美術史や芸術史、あるいはデュシャン登場後の現代芸術の流れの中で、岡山の芸術祭で展示されているものがどのような位置づけになるのか?あるいは今回の作品が現代の哲学の潮流にどのような影響を受けているのか、そうした説明がもっとなされてもいいのではないかと思う。「そんなの知らなくても、自分の感性で鑑賞したい」という人も要るだろうから、例えば美術展のイヤホンガイドのようなものをアプリで販売できないのだろうか?と感じた。

 「考えるのではなく感じるものだ」という説明は真理であるけれども、クラシック音楽を40年以上聴いてきて思うのは、例えば現代音楽を聴く際には、少なくともバッハ以来のクラシック音楽の系譜や、主要な楽曲を知っていればより面白く聴け、理解も深まるのは間違いないことで、「最先端のアート作品から感じ取ってほしい」と突き放すだけでなく、そうした一般市民にもわかりやすいレクチャーは必要だろうと思う、そうでなければ、この国際芸術展は岡山市民からどんどん距離が離れていき、ついには開催困難になっていくのではないかと思ったりする。
 最後に良かったなと思うのが、クロージングイベントが無事開催されたこと。
 クロージングイベントは「国際展と芸術祭の隆盛 〜その課題と可能性」という興味深いテーマで、芸術批評家、アートジャーナリストやアートディレクターの方々によるディスカッションが開催されたようだ。その中にあいちトリエンナーレ2019の芸術監督を務めた津田大介さん名前もあり、無事開催されるのか関係者の間では緊張が走っていたようだが、山陽新聞の記事を見ると大きな妨害などもなく活発な議論が交わされたようだった。
 津田さんが参加するイベントは札幌や神戸では中止されていた。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/342237
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201908/0012592817.shtml
 特に札幌に至っては抗議や苦情が1件も来ていないのに中止されたとのこと。背後に政治的な力が働いたのではないかと思う。
 岡山県知事ははっきりとあいちトリエンナーレの補助金交付取り下げを批判していたし、岡山市長もこの芸術祭に力を入れていることもあって、このイベントをするにあたって、私が想像する以上に両首長の腹が座っていたのを見て、岡山も精神的な部分で「都市」になったのだな、と感じた。
 そもそも札幌も神戸も岡山も、あいちで展示されたような政治的にきわどい展示は無かったし、コンセプトも全く異なるのだから津田さんが招かれたイベントを中止するいわれはまったく無いのだが、開催された都市と中止した都市で、特にアート界の人々の心証や評価は異なってくるだろう。面白いのは岡山での展示内容を見ると、人類滅亡後の世界を想起させるような展示もあり、人類が滅亡すれば愛国心もナショナリズムも表現の自由も意味をなさなくなってしまうのだが、「人類滅亡をテーマにした展示をするなんて、神の国である日本への冒涜だ!」という批判は聞かれない(笑)。人の自尊感情や批判精神というのは、人間の想像力の限界を超えたところでは起こり得ないということを証明しているようにも思う。
(終わり)

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